第1278回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1277話  社会党機関誌ラ、リーマ編集長の事。2015年8月31日月曜日の投稿です。





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      前文で、 ベニート ムッソリーニ先生が、 ファシズムの原点を考える

     様になっていった 経緯を紹介したのですが、 私生活では、 兵役中、

     最愛の母親のローザが、病でなくなり、 随分精神的に落ち込んでいた

     ようです。



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             【   ムッソリーニ 先生の母親 ローザ 婦人 】


     母親が亡くなる前に、遺言のような感じで、「 教師であった母の志を継いで、

    貧しい子供たちに手をさしのべて、 教師になるように。」と、言い残したそうで、

     兵役を除隊後、 トルメッツオ という町で、また 教師になったようです。

     この町で、 23才のムッソリーニ先生は、 ドイツのロマン主義とか、

     ドイツの観念論とか、バルグッソンの哲学とか、スピノサの哲学、などを

     研究したようです。

     25才の時に、 フランス語の教師の試験に合格し、 1908年にオーネリア

     という町の学校のフランス語の教師になり、 ここの 社会党支部

     社会党の機関誌 ラ、 リーマの編集長を兼ねていたようです。

           ここで、自分の考えや、 世の中の矛盾、人々をどうしたら、貧困から

     救えるのかという、 独特の論文を発表するようになっていったのです。

     
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      このような 経歴からわかる様に、ムッソリーニ先生は、 教育者で、

      自らも、 不断の努力で、 3カ国語を話せるよう勉強し、 ドイツの

      政治学の本や、 哲学の本を読んで学問を深め、 オペラ座に足を

      運んで、 演技や、 語り方を勉強し、 それを 授業で使って、

      子供たち相手に、演説の稽古をしていたようです。



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       その後、 社会党 主宰のデモ行進などに参加するようになり、

       社会党の機関誌 ラッ、リーマを通じて、 ムッソリーニ先生の名前は、

       世間の人から 知られる存在となっていったのです。



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      そして、ムッソリーニ先生が30才の時、 日本で欧州大戦と呼んで

      いたのですが、 戦後の呼び名で、 第一次世界大戦が始まるのです。

      はじめの1914年は、 イタリー王国 【現在のイタリア】は、様子見して

      参戦はしなかったのですが、 戦雲は、 ムッソリーニ先生達に、忍び

      寄って来たのです。

      この当時の イタリー王国の首脳の参戦の決断が、後の経済破綻に

      つながっていったのです。


       【 明日に続く。】