第1300回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1299話 イタリア共産党の反乱の事。 2015年9月22日 火曜日の投稿です。






   
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    第一次世界大戦が終わった数年後というのは、 欧州の議会というのは、

   与野党の勢力が拮抗して、 野党だったのが、与党になり、また野党になり

   と、 そのような感じで、 両者、 同程度の議席数で、ほぼ横ばいの議席

   大金を政党間で、 ばらまいたり、受け取ったり、そして 小政党が、野党と

   連立して、与党になるというような、 そういう政治が続いて行った結果、

   与党に対して、野党は反対するわけで、 議会で法案がなかなか通らず

   政治が停滞し、 経済恐慌に対して、有効な手立てがなかなか打てなかった

   ようです。



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         このような、政治の怠慢というか、議会制民主主義というか、こういう

         なにも決まらず、 すぐ手を打てない議会政治を、民衆の側から

         見ていた、ムッソリーニ先生や、 当時 ドイツのミューヘンで、

         貧乏暮らしをしていた、 アドルフ ヒットラーは、ずいぶん不満に

         感じていたようです。



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       ムッソリーニ先生は、 政治を行うのは、1年、2年のスパンではなく、

       10年単位で、物事を計画して、政治を進めていくのに、何事も絶対多数

       の議席を常時確保して、素早く世間の出来事に対応して、法案を作り、

       政治の手を打っていくことが大切であると考えるようになっていったのです。

       与党だとか、 野党だとか、政争に明け暮れ、 実際の世の中はどんどん

       経済不況と、治安が悪化して行っていたのです。

        

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  そこで、絶えず争い事や、言い合いをして、何も決められない議会をどうしたら

  世の中の動きに合わせて、迅速に行動する機関に変えていくことが出来るかと

  考えていくうちに、 一掃のこと、混乱する議会を無くしてしまおうと考えるように

  なっていったのです。



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    イタリアの共産党は、 人々に呼びかける独特の演説で、「 生活が悪く

    なるのは、 国王や貴族、 地主が、税金や年貢を取り立てるからで、

    みなさん、 これらの税金や年貢を無くして、 国家が平等にみなさんに

    利益を分配し、 国民で団結して仕事をしていきましょう。

    まずは、世の中の仕組みを変えていく必要があります。

    みなさん、まずは、貴方が行動を開始しましょう。」 と、宣伝していった

    のです。


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       ロシアのレーニン10月革命と イタリアの騒動を比較すると大きく違って

       いたのは、 レーニンの場合は、ドイツがフィンランドから大量の武器弾薬

       物資を 補給して供与していたので、 短時間で革命が成立して行った

       のですが、 イタリアの騒動の場合はそうではなかったのです。



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       多くの工場や交通機関で、 農場でストライキ労働争議がおきて

       いったのです。

       ストライキは、その後、 デモ行進となり、 周辺の商店の破壊行為

       など、治安の悪化に及んでいったのです。



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         当時の イタリアの首相  イタリア自由党の ルイージ ファクタは

         共産党ストライキや暴動に対応しようとしたのですが、全国各地

         いろんな場所で発生していくので、 後手、後手にまわり、対応が

         遅れていったのです。


         後に この時代を研究する人達がいろんな説をとなえているの

         ですが、 イギリスが ムッソリーニと仲違いして、今度は、共産党

         手を組んで、 イタリア国家を転覆させようとしていたとか、



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        ロシアのレーニンが、スイスに亡命中に組織した、共産党組織が、

       イタリアに入り込んで、 共産革命を煽動していたとか、 いろんな説が

       唱えられています。

       このような事で、 イタリア全土は、 労働争議が多発して、経済不況と

       合わせて、 大きな混乱の中に落ちていったのです。



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      ローマのバチカン、 イタリアの貴族、 財閥の間では、おそらくこのまま

      推移すると、ロシアの共産革命が、イタリアにも飛び火して、暴動が発生し、

      教会を破壊し、神父を皆殺しにして、 資本家が殺害処刑され、共産党

      政治が始まり、 自分達の身分の特権が無くなっていくと考える人達が

      増えていったのです。



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     「 戒厳令をしいて、 軍隊を動員して、 労働争議を武力鎮圧すべし。」

     という、意見や、 「 まて、 そんなことをしてみろ、 ロシア皇帝のした

     ことと一緒で、都市部で軍が民衆に発砲して、よけいに暴動の火に

     油を注ぐ結果となっていったではないか。」 と、 制止する意見もあって

     イタリアの政界は、 何も出来ずに時間だけが過ぎていったのです。




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     ムッソリーニ先生と 行動をともにしていた、 元陸軍大尉のパルポは、

     ムッソリーニ先生にある提案をしたのです。

     いよいよ、 ファシスト党が動き出したのでした。


     【 明日に続く。】