第1306回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1305話 イタリー国王との駆け引きの事。2015年8月28日月曜日の投稿です。
日本の関東大震災が発生する、約1年ほど前の1922年 大正
11年の10月18日 イタリー王国【戦後のイタリアの事】の 退役
軍人を中心とした、 ファシスト党の党員は、 黒い服を着込んで、
ミラノから、 首都 ローマにむけて、デモ行進を開始したのです。
これらの事は、日本で言うと、予備役の兵士、 将校が、自ら
水交社や、階交社と呼ばれる会を統合して、政党作っていった
戦後で言うと、 自衛隊協力会が、 政党になって、 デモ行進した
そういうと、わかりやすいと思います。
それらのデモ行進は、 統率の取れたしっかりした行進で、 物を
壊したり、 投石したり、 放火したり、 そういう戦後の暴動的な
デモ行進とは、一風違った行進でありました。
途中の、町、村で、演説を行い、 何も関係のない人も、ファシスト党
の経済政策、雇用促進の政策のお話を聞いて共感を感じ、急いで
家の洋服ダンスから、黒い服をとりだして、着込んで参加する人も
多かったのです。
その数は、 2万とも、3万とも、4万とも伝えられ、 多くの人が
当時の経済破綻し、 国王と貴族と財閥と教会中心の政治に、
愛想を尽かして、変革を望んでいたようです。
当時のイタリー王国の国王は、 小田原評定が続き、なにも
決められず、 当時の首相一派が、 軍隊による武力鎮圧を
主張する中、 考えたのが、 失敗しないことを考えたのです。
つまり、 成功を収めなくて良いので、 現状より失敗して
悪くならないように、 そういう考えで動いていったのです。
5年前の、ロシアの2月革命では、ロシア皇帝は市民を武力鎮圧
しようとして、デモ隊に発砲し、 それが引き金となり、全国各地で
軍隊以上の勢力の民衆が蜂起し、 暴動となり、 それを見ていた
帝国議会の 政治家や、 軍人達が、 謀反を起こして、皇帝の
地位を奪われ、幽閉され、 その後 子供まで、一家皆殺しに
なってしまうのですが、 そのような事は避けようとしたのです。
武力党閥を主張する、首相は、元々その年の7月に解任しようと
考えていたので 信用していなかったようです。
そこで、 イタリー王国の国王が失敗のしない方法を考えた
呼びかけ、 ムッソリーニ達の要求を聞き出して、 それを承諾し、
代わりに、自らの身分と地位と財産と権利の保全をしようと
思い至ったのです。
それから智恵を搾って、妥協点を作り出し、なんとか イタリー王国
の王政を存続させようとしたのです。
結果、この考えはその後のファシズムの独裁の原点になったと
批判を受けるわけですが、 そうは思わないわけです。
国王が 首相が唱える軍隊による攻撃を許可していたら、
多くの人が死んだであろうし、 ミラノとローマの間は、家々は
戦火に焼かれ、その後の混乱で内乱となり、各地で戦争が
起きていたであろうし、 おそらくイタリアの国内は、 共産党の
独裁国家が出来ていたであろうし、 多くの人が苦しんだでしょう。
国王のこの判断で、多くの人の命や、財産が破壊されることなく、
すんだわけです。
このような経緯で、 一発の弾丸、砲弾を発射することなく、
イタリー王国の ヴィットリーォエマヌエーレ 国王の呼びかけで
ファシスト党の幹部と、 国王の会談が行われる事になったのです。
これらの出来事は、 ドイツやロシアなどの多くの流血事件とは
また 違った混乱の収拾方法でありましたが、 その後の軍隊式の
軍律を元にした軍国主義の恐怖政治の始まりでもあったのです。
【明日に続く。】