第1307回 昭和の伝道師【戦中戦後のパイロットの物語】
第1306話 ファシスト党と国王の会談の事。 2015年9月29日火曜日の投稿です。
1922年 日本の関東大震災が発生する約1年前の大正11年10月に、
退役した軍人を中心とする ファシスト党のメンバーが、ミラノから、首都
ローマに向かって、デモ行進を始めて、 その数はどんどん時間をおう事に
一般市民が参加して増えていったのです。
後の世で、「 ムッソリーニのローマへの進軍。」 と呼ばれることになる
この出来事は、 日本人にわかりやすく説明すると、大阪から、東京へ
演説をしながら、 自衛隊の協力会のメンバーや、戦前の軍恩の会
のメンバーが集結して、徒党を組んでデモ行進した、 こういう感じの
出来事であったのです。
この時のイタリー王国の国王がとった方法というのは、日本の歴史で
例えると、 1180年前後に、後白河法皇という人がいましたが、
その人がとった方法と、よく似ています。
平 清盛や、 源 義仲、 源 義経、 源 頼朝 と、 武力を持った
勢力が押し寄せてくると、 朝廷の権威と、懐柔策で、上手に武装
勢力を操っていった そういう出来事とよく似ています。
「 私腹を肥やす人でなかった。」 と言うか、話を聞いてみると
国王側が、 その話しに乗っていくようになっていった様です。
つまり、 当時 国家の財政は破綻し、 議会が与野党の勢力が
ほぼ同数で、その結果、帝国議会で政治が空転し、なにも決めら
れず政治が停滞していたのです。
そこに、 共産主義の暴動が各地で発生し、 頭を抱えていた
のですが、 ファシスト党は それらを一気に解決する政策の
提案を行ってきたのです。
国王や、 ローマのバチカンの教会側は、 自分達の利権と
身分がおかされなければ良いと考えていたようで、 ファシスト党
を利用して、 つまり、「 毒をもって毒を制す。」 ということわざが
日本にもありますが、 彼等を利用して、共産主義の全国的な騒動
を潰して行こうと考えたようです。
イタリー王国の国王は、なんと、当時の首相を二度目の罷免にして
処分する事も行わず、 日本の内閣総理大臣に該当する、
イタリー王国の首相に 国王自らが大命降下して、 ムッソリーニ
先生を首相に任命したのでした。
当時の帝国議会の議員達は、 内乱を避けるための国王の裁定
当時の与党であった自由党は、 とりあえず国王が命令するので
仕方なしに、ファシスト党の御輿を一時期担いで、 15名の
と対決させて、 その後、御輿を放り投げて、 また政権を取れば
良いと考えていたそうですが、 ムッソリーニ先生は、そのような事は
お見通しで、 次々、詰め将棋をするように、手を打っていったのです。
それは、後にファシズム つまり、 議会を無くして、独裁政治を
始めていく原点になっていったのです。
当時、これらの出来事をニュース映画と呼ばれる 当時の報道番組
的な映画を ドイツのミューヘンの映画館で見ることになった、アドルフ
ヒットラーは、 目からうろこが取れたような思いで、何度も視聴し、
さっそく、模倣しようと 智恵をしぼり始めたのです。
出来事を聞いた レーニンは、「 あのスイスで自分を訪問してきた
金も力も何もない青年 ムッソリーニがーーー。」と驚き、顛末を
聞いて、「 詰めが甘い、 所詮 教師あがりの男だ。」と言い放った
そうです。
「 王宮、教会、地主、 商店 すべての物を破壊つくし、破壊尽くすことで
新しい物が芽生えていく、 革命に反対する者は、たとえ、肉親でも
鉄の心で処刑し、 神父、皇帝、貴族のみならず、 その妻、子供
親戚に至るまで 死を与えて、根絶やしにせねばならない。」
「 死とは、 全ての終わりを意味し、 血は革命の源泉なので
ある、反対勢力に死を与えてこそ、 毎日枕を高くして寝れる
わけだ。」
「 自分なら、 ローマの教会勢力のバチカンや、 イタリー王国の
国王や貴族を、そして、妻子、一族を みんな処刑したであろう、
彼等を残しておくことは、後に 身を滅ぼすことになろう。」 と、
つぶやいたそうです。
そして、そのレーニンの予言は、 現実のものとなっていき、
ムッソリーニ先生の命を縮めていったのです。
【明日に続く。】