第1308回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1307話 陸軍軍曹とはの事。 2015年9月30日 水曜日の投稿です。
1922年 日本の大正11年10月18日前後の通称「ムッソリーニの
ローマへの進軍。」 と称する、首都 ローマへの進軍の様子は、
当時の 新聞や、雑誌、 記録報道映画によって、世界に伝えられた
のです。
スイスと、アルプスをはさんで、 その先の当時の戦争敗戦国で、不景気
と、混乱が続いていた、ドイツこと、 ワイマール共和國では、新聞に
大きく、 「 イタリー王国 陸軍 軍曹 政権奪取。」 という大きな見出しで
紹介されたのです。
そして、世界の報道陣から、イタリー王国は注目され、どんどんイタリー王国の
ならんで注目され、 多くの人が知る存在となっていったのです。
当時の世界の列強の国々では、 18才や、20才と、 各国バラバラで
あったのですか、 日本などの場合は、3年間兵役につかないといけない
法律となっていて、 この徴兵義務を拒否した場合、 刑務所に収監され、
国賊、 非国民の汚名を着ることになっていったのです。
これらは、 イタリー王国や、イギリスや、フランス、ドイツも同様であった
のです。
ムッソリーニ先生の軍曹という身分をわかりやすく説明すると、軍隊の部隊
の単位は、 一番上が、 軍団、 師団、 旅団、連隊、大隊、中隊、小隊
とあって、 1番末端の部隊単位が、分隊 【ぶんたい】という単位であった
のです。
それぞれの国で多少前後するのですが、分隊の人数は、7名から10名
程度でありました。
これらの人数で、24時間 3年間ずっと一緒に行動するわけです。
これらの分隊を統帥、管理するのが、陸軍軍曹でした。
初めの1年間は、二等兵となり、 通常でありますが、 1年すると
もう1年すると、 上等兵【3年兵】となるのです。
だいたいの人が、 軍規違反などがなければ、 3年後の除隊
する時は、 上等兵となって、 満期除隊するわけです。
そして、その上になるのが、下士官【かしかん】で、どういう仕組みかと
事になっていたのです。
この 軍曹の中で、年配の老練な人物、 優秀な人物は、曹長になって
小隊本部、 中隊本部で、 部隊長の補佐をする事になっていたのです。
優秀な、年配者がその職について、 多くが部隊の司令部附で勤務し、
先任伍長のような、立場であったのです。
このような身分制度があって、 少尉と言うと、一般社会からの物差しで
みると、 サラリーマンで言えば、 課長程度の立場で、 准尉や、曹長は、
課長代理クラス、 軍曹というのは、 係長程度の身分と思っていただくと
わかりやすいと考えます。
そのようなわけで、 陸軍の退役した軍曹が、 戦友を集めて、ファシスト
党なる組織を作って、 当時の首相を倒閣し、 自らが首相になった
という出来事は、 不景気と、失業に苦しんでいた、退役した若い
兵士や、 中高年の 下士官に衝撃を与えたのです。
つまり、 新聞を読んだ人は、 「 俺たちにも、出来るのではないか。」
命をかける価値があると、 男の野望に火をつけていったのです。
そのような、人達の中に、 有名な、 後のナチスの指導者となる、
アドルフ、ヒットラーがいたわけです。
彼は、 陸軍伍長で、 どのような任務を勤めていたかというと、
前線の小隊本部から、 中隊本部や、大隊本部への伝令兵でした。
当時は、無線というのが復旧していなかったので、人が走って、
口頭で伝言を報告したり、伝えていたりしたのです。
つまり、アドルフヒットラーは、 軍曹の次の階級の伍長という、軍曹を
補佐する 身分であったのです。
そういうわけで、 当時 収入が無く、 絵を描いて、 売り歩いて、
売れずに、貧困にあえいでいた、 ヒットラーは、 特別な頭脳で、
ムッソリーニ先生の記事を読んだりして、「 ワシにも、出来るはずだ。」
と考えるようになっていったのです。
行動を描いた記録映画や、新聞記事を読みあさることになって
いったのです。
【 明日に続く。】