第1321回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1320話  ヒットラーの同居人の事、 2015年10月13日火曜日の投稿です。






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    オーストリア ハンガリー帝国の リッツの裁判所で判決があり、ヒットラー

    主張する言い分は退けられ、 親の財産は、子供に均等に分与されること

    となり、ヒットラーは、母親の死と、家族の崩壊と言う事を経験したのです。 
    


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     再び、ウィーンの下宿に戻った ヒットラーは、 母親や、姉からの仕送りは

     無くなり、手元に幾ばくかのお金がある程度で、随分心細かったようです。

     つまり、戻る家も故郷も無くなってしまったのです。


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        ヒットラーを研究する人によって、いろんな説があるのですが、

       ヒットラーは、この当時からある男と同居を開始するのです。

       研究者によっては、「ヒットラーが男を好きになってーー云々。」とか

       いろんな説があるのですが、 総合すると、故郷のリッツの歌劇場で

       知り合った、 アウグスト グビッェクという、1才年下の少年と暮らし

       始めるのです。

       この少年、家の経済的事情から、ヒットラーと同じ小学校卒業で、

       中学には行かずに仕事をしていたのですが、 歌劇場に通うようになり



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      オペラの演技に合わせて演奏される音楽に興味を持ち、 歌劇場に

      出入りしている間に、 ヒットラー接触があり、 仕事を辞めてウィーン

      に出てきて、ヒットラーを頼ってきたようで、 当初は居候と言う事になり、

      後に、 部屋の家賃を折半することになった様です。



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          【 数ヶ月 ヒットラーと同居していた アウグスト クビツェク】





      クビッエクと言う人は、音楽家になりたくて、音楽の学校に入学したかった

      ようで、ヒットラーも画家になりたくて、 美術学校に行く勉強をしていると

      彼に説明していたようです。

      18才と17才の2人が部屋を借りて、自活生活が始まったようです。

      ヒットラーは 親の遺産の分与で得た現金を取り崩しながら当面

      生計を立てていたようで、 仕事をするという事は無かったようです。




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        当時、ウィーンに来て3年目になっていたのですが、 建物の

        写真を見て、 部屋にこもって 絵を描き、 疲れると、歌劇場に

        同居していた、 クビッエクをさそって、 オペラを見に行っていた

        ようです。


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        1908年 明治40年 ヒットラーは3回目のウィーン美術アカデミーを

        受験して 不合格となり、 ここからが多くの人が研究する部分ですが、

        ウィーンから手荷物を持って姿を消してしまうのです。

        第2次世界大戦後、 ナチスの協力者として、アウグスト クビツェク

        は逮捕されて 収監されるのですが、この時、語った調書によると、

        彼の知らないうちに、ある日突然、 ウィーン美術学校の合否の発表の

        後に、 ヒットラーは行方知れずとなったそうで、挨拶もなければ、

        ヒットラーの大きな荷物もそのままであったそうです。


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       このような事から、この部分がヒットラーの謎の行動となり、多くの人の

       探求心を刺激して、 いろんな推論が申し立てられています。



       その1つは、 入試に3回失敗して、 同居していたクビツェクに日頃

       大きな話をしていて、面目が潰れてしまい、 挨拶もせずに夜逃げした。



       もう1つは、 ユダヤ人の金融屋に借金があって、返済が出来なくなり

       クビツェクに挨拶して出ると、彼が良からぬ事を借金取りにしゃべるの

       ではと、考えて何も言わずに夜逃げした。



       もう一つは、 オーストリアハンガリー帝国の徴兵を逃れるために、

       姿を隠したとか、 いろんな説があって、 はっきりしていないのです。




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         このような事実から、 ヒットラーという人物が、人の事を、人の立場

         を 心配するような人物ではなく、自分勝手な自己中心的な人物で

         あったと考えざるおえない行動であったのです。


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                    【  ヒットラーの両親 】

       
         即ち、 大人数の子供がいて、ヒットラーに目が届かなかったのか、

         家庭での教育、しつけが出来ぬまま、 大きくなってしまった。

         嫌いなことは、一切やらない、 学校に行くのも嫌いだから行かない、

         自分の好きなことしかやらない、 自分の好きな食べ物しか食べない、

         自分の嫌いな食べ物は 一切食べない。 こういう行動を両親が

         指導しなかったが為に、ヒットラーのような少年が出来ていったよう

         です。

          1908年 アドルフ ヒットラーは、生まれた国の オーストリア

          ハンガリー帝国から、 姿を消したようです。


        【 明日に続く。】