第1329回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1328話 サラエボ事件の事。 2015年10月21日水曜日の投稿です。





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        日本の1914年 大正3年の春、 日本陸軍山縣有朋 公が

        海軍の薩摩閥の実力者、 山本 権兵衛 海軍大将を内閣総理大臣

        から引きずり下ろし、 陸軍の御輿に乗った 大隈 重信 という人が

        総理大臣の椅子に座ったのです。

        この大隈という人は、維新の元老であったのですが、基盤が弱く

        少数派で、 陸軍の操り人形のような形で、 総理大臣になったと

        いうか、迎合しないと、なにも前に進まないような、時代であったのです。

        つまり、 日本陸軍長州閥を敵に回しては、 内閣が続かない程度、

        長州派の 山縣 有朋 公の派閥の力は巨大で力があったのです。 



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          当時25歳となり、 貧困にあえいで、すみかの部屋の家賃を

         滞納し、 親戚のおばさんに、お金を援助してもらいたいと手紙を

         書く日々であった ヒットラーは、ある夏の暑い日に新聞を手に

         とって 驚くことになっていったのです。


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     ヒットラーが驚いたのは、自分の母国の オーストリア ハンガリー帝国の

     皇太子、 フランツ フェルデナント夫妻が、6月28日に暗殺されたという

     そういう記事であったのです。


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         ヒットラーが暮らしていた頃、 オーストリア ハンガリー帝国の

         国王は、 84才のフランツ ヨーゼフ1世でありました。

         長寿であったのですが、 息子の皇太子が、 5年前に武力併合

         した セルビアサラエボに視察に出かけて、 暗殺されたのです。


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        当時の研究者によると 暗殺グループは 数個の分隊に別れていて

        一段目のグループは、 建物の窓から 車列を狙撃するという そう

        いう方法であったようです。

        そして、二段目のグループは、車列に ダイマナイトの束に火をつけて

        投げ込むという方法であったようです。

        投げ込んだのはよいですが、すぐ爆発せず、後の車列で爆発が

        発生し、12名が大怪我をするという事件になったようです。



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         皇太子 一行は、 セルビアの市役所を訪れ、ここで視察を中止し、

         行方を隠して、帰国すれば良かったのですが、そのまま視察を

         続けたらしいのです。


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        そして、 3番目の暗殺のグループが待ち受ける この橋の近くで

        まずとなりに乗っていた、妊娠中のご婦人が腹部を撃たれ、 そして

        フェルデナント 皇太子もクビを撃たれるという そう言う事件であった

        そうです。

        医療水準の低い当時、しばらくは生きていたようですが、2人とも

        亡くなったようです。


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         この事件の顛末を聞いた 父親の オーストリア ハンガリー帝国の

         国王は、激怒して、 復讐を考えるようになったのです。

         この暗殺事件は、 セルビアと、オーストリア ハンガリー帝国だけ

         の戦争で終われば良かったのですが、 各国が軍事同盟を結んで

         いたので、 同盟を組んでいる国どうしで、世界 大戦争に発展して

         いったのです。


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          殺された この2人のご夫妻も、 そこまでは想像もしていなかった

          のではと思うのですが、 不用意に野外に出かけて、視察を

          強行しようとしたことが、 自らの死を招き、 ヨーロッパの多くの

          人の人生を変えていったのです。

          そして この戦争は、後のファシズムの原点となっていったのです。


         【明日に続く。】