第1893回 岡山県高梁市の武家屋敷 埴原家を見物する。模型公園

みなさん、こんばんは、模型公園です。 2015年11月28日土曜日の投稿です。





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     木曜日のお話の続きなのですが、岡山県高梁市武家屋敷を見物に

  行った テクテク トラベル テクトラの紹介記事の続きです。



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      ここ、備中松山藩五万石は、 超貧乏藩で、当時天文学的借金を抱え

      幕府に領地を返上して、滅亡が近いと言われていたのですが、山田

      方谷 という 身分の低い学者を登用して、 行政改革で巨万の富を

      築いて、 江戸時代後期、 西日本で1番お金持ちになったという、そう

      いう由来のある藩があった場所です。


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        髙梁川の、東の土手に当時城下町が広がっていたそうです。



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  本日紹介するのは 埴原【はいばら】家 150石のお宅を見物しました。




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     百五十石 と言うのは、 知行取りと、蔵米取りとに別れていて、

     身分は、知行取りの方が格式が上であったのです。

     知行取りというのは、 殿様から、百五十石の収穫のある土地をもらって

     いるそういう武士でした。

     そして、蔵米取り というのは、 序列がしたですが、藩の蔵から、

     お米を現物支給で百五十石もらっている武士の事をさしています。

     つまり、 序列が下なのですが、蔵米取りの武士は、 知行取りの

     武士の倍の収入がありました。



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                     ここが当時の玄関です。

         150石というと、現在の貨幣価値に直すと、 年収2000万円から

         1500万円の収穫のある土地から、 五公五民という年貢率の場合、

         年間1千万円から、750万円程度の 年貢収入があったようです。



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         その収入の中から、 埴原家は藩から格式により3人の使用人

        を連れて歩くことが義務ずけられていて、家計を圧迫していたようです。

        当時の分限帳を見ると、 槍持ち、草履取り、 荷駄持ちと3人の

        家来を連れて歩かないといけないと言う、 そういう法度があったそう

        です。 



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      玄関のなげしの上には、家紋の入った、かえる股【また】というのを

      つけるのが 当時松山5万石の板倉藩の身分の格式であったのです。



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       玄関から、外の門を見て見ました。

      来客があったら、 ご婦人は、ここに正座して、一礼し、お客様をお迎え

      したそうです。


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         これは、幕末当時のご家老の山田方谷【ほうこく】の銘の入った

         木彫りの額です。


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     家の玄関は、その家の当主か、お客様以外は使用出来ませんでした。

     そう言うわけで、奥さんや家の使用人は 裏の勝手の入り口から出入り
  
     していたそうです。



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        実は、150石知行取りの身分では、かごに乗ることは許されていま

        せんでしたが、 観光施設なので、複製の籠が置いてありました。



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         この手の籠の作りは、 御殿医などの 身分の高い、お医者などが

         乗り込んでいたようです。


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       籠を担ぐ身分の人は、 なるべく籠が水平に保って、揺れないように

       担ぐことを要求されたそうです。



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       この絵は、少しおかしいですね、 というのが、この人の身分は

       学者で、 お城には登城出来ない身分の人です。

       描いてある頭のかみゆいの形、 指している 刀の様式でわかります。

  
       当時、髪型、 大小の刀の外見まで、厳しい法度があって、破ることは

       許されない社会でありました。


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         ここは、台所と表示がしてありますが、 配膳室です。


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      この民具は新しいレプリカですが、 雰囲気はこんな感じであったようです。



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    現在は消えてしまった、懐かしい火鉢などがおいてあります。



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                    中の座敷に進んでいきます。


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        この部屋は、いざとなれば、ここから弓を用いて、正面玄関の防備に

        使用出来るような、そう言う作りになっています。


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                ここは、控えの間で、 奥が当主の座の部屋です。


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          床の間の左の窓は、かとう窓と言って、 禅宗のお寺の作りの

         窓を取り入れた建築になっています。

 

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         右側は、違い棚という作りで、 室町時代に始まった、お寺の

         建物の内部に影響されて、日本の武士の家に取り入れられました。



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                  当主の間からの中庭の眺めです。


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              この様式の庭の造りは、枯れ山水という様式です。



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         ここで 小鳥の声を聞きながら、 日なたごっこや、 盆栽の

         手入れをしていたようです。


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        こちらの部屋は、 家族が使用する、 奥向きのプライベートな

        部屋に進んでいきます。


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        障子は、2年から3年すると 破れてくるので、維持管理が大変です。


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          内部の奥座敷はこんな感じになっています。



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          この部屋は、 奥さん達が使用していた部屋のようです。



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        部屋の障子を開けると、裏には こんな感じの庭が広がっています。


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         裏の右には、当時の倉庫、 蔵があります。



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        この蔵は、修復してありますが、よく当時の姿を残してあります。



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         こちらが 井戸です。

         当時は、水道がなかったので、この井戸が飲料水に使用されて

         いたようです。


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         ぐるりと回って、裏の勝手口に戻って来ました。


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            今日の紹介は、 この家のみで、次は 通りに出て、



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           次の武家屋敷に テクテクしていったのです。


      【明日に続く。】