第1397回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1396話  軍人の武装蜂起の事。 2015年12月30日 水曜日の投稿です。





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       1920年3月13日 深夜 ドイツ海軍の義勇兵を主体とする、数千人

      の将兵が、隠密に ベルリンの官庁街に進出し、 武力制圧して、

      ベルリンの町は、大騒ぎになったのです。


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  そして、 ストライキ屋こと、 当時のワイマール共和國のエーベルト大統領

 など、閣僚を皆殺しにしようと、 ベルリン周辺に駐屯していて、政府から解散

 を命じられていた、 いろんな民兵組織が、ベルリン周辺から、どんどん進軍

 してきて、ベルリンの周辺は、多くの兵士や、 戦いに巻き込まれて 殺される

 人が多数出たのです。


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      ワイマール共和國のエーベルト大統領や、首相や、閣僚は、運良く

   ベルリンを脱出して、 南部のシュトゥットガルトに落ち延び、首都を、ベルリン

   から シュトゥットガルトに遷都を宣言して、ワイマール共和國が正統な政府

  であると宣言したのですが、 ベルリンでは、 武装蜂起した、ヴァルター フォン

  リュトヴィック 陸軍少将等が、 独立を宣言し、ワイマール共和國を否定し、

  ヴェルサイユ条約破棄を発表したのです。


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    そして、 ヴァルター フォン リュトヴィック少将は、自らは、国防大臣に

    就任し、右派政治家の、ヴォルフ ガング カップという人を大統領に

    据えて、 ベルリン政府こそ、正統な政府と名乗ったのです。




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          【  解任されて2日後に武装蜂起したリュトヴィック陸軍少将 】


               この出来事を カップ一揆と呼びます。




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             【  当時のベルリン政府大統領  カップ 】



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 この ドイツ海軍を主体とする義勇軍と、 リュルトヴック陸軍少将の陸軍部隊

 の1万2千名ほどの武装蜂起は、わずか、2日間という準備期間でしたが、

 ベルリンを占拠し、ワイマール共和國の政治家をベルリンから追い出すことに

 成功したのですが、  残念な事に、準備不足と、思いつきに近い作戦で、彼等

 を抹殺することには失敗したのです。

 この時、 彼等を抹殺していたら 歴史は変わったかもしれません。

 そして、彼等の大きな手落ちというのは、陸軍参謀本部を制圧せずに、放置

 したことでした。

 彼等は、ドイツ陸軍は同志で、自分達を支持していると考えていたようですが、

 ワイマール共和國の陸軍参謀本部は、どちらの政府にも加担せず、中立を

 表明したのです。



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 この時に、 ドイツ軍の参謀本部を占拠し、 非協力者を抹殺し、その支配下

 ドイツ国軍をおいていたら、 彼等は大きな力をえたでありましょうが、これを

 やらなかったわけです。

 そのような訳で、 ベルリン政府として、独立を宣言したものの、陸軍部隊の

 数千人の部隊と、海軍の数千人の部隊と、 一部の右翼的な、反ワイマール

 共和國の政治家の集まりにしかならなかったのです。



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     このような事情で、 1920年 日本の大正9年3月に、ベルリンを首都と
  
    する、右派政治家と、ドイツ海軍とドイツ陸軍の寄り合い所帯の政権が

    誕生し、 南部の シュトゥットガルトを首都とする、エーベルト大統領の

    ワイマール共和國の政権が対峙し、 国軍はどちらにも加担せず、

    中立を表明し、様子見に徹するという そういう事態に至ったのです。




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       そして、これらのベルリンでの混乱に乗じて、ドイツのルール地方では、

      共産主義を叫ぶ組織が、どこからか武器弾薬を入手して、武装蜂起

      していったのです。


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        ドイツのルール地方共産主義武装蜂起は、諸説があるのですが、

       どうも、フランスの諜報機関が煽動をしていたようで、フランスが、

        ドイツ軍から接収した武器弾薬を 共産主義者や、労働組合員に

        流していたようです。

        1920年3月17日、 ベルリンの騒動から4日後、 5万人程度の

        共産革命が発生し、 これを ルールの蜂起と呼んでいます。  



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        ドイツは分裂し、内乱の様相となり、 当時のフランス政府は、この

        騒動と、 ベルリン政府が、 ヴェルサイユ条約破棄を宣言したため、

        第1次世界大戦の和平条約違反と決めつけ、陸軍をドイツ国境に集結

        し始めたのです。


        どうして、共産革命をフランスが煽動したかというと、 通常の反乱

        騒動でフランスが派兵すると、国際社会から侵略と決めつけられ、

        非難を浴びる恐れがあり、 これが、共産革命であれば、イギリスや

        アメリカなども、自国への飛び火を恐れて、 共産党の武力討伐に

        賛成するであろうと、想定し、共産革命を焚きつけていたようです。

        実際、この当時、ロシアの共産革命を潰そうとして、イギリスや日本

        などは黒海側からはイギリスが、 シベリア側からは、日本などが

        共産主義を潰すために、 軍隊を侵攻させていたのです。

        そのような事情で、 共産革命の方が、国際社会に対しては、建前的

        には都合が良かったようです。
 



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    フランス政府は、 ドイツ国内で内乱を煽動し、 共産主義者に武器弾薬を

    内々にばらまいて、 内乱を画策し、油をまいて、火をつけて、燃え上がらせ、

    国際社会に対しては、 共産革命の騒動を鎮圧すると称して、ドイツの

    工業地帯と石炭の産地のルール地方を占領して、 自国の領土にしようと

    陰謀をめぐらせていたのです。

    当時、フランスは、ドイツの9割近い石炭を産出するこの炭鉱地帯を、

    占領し、自国の領土とすれば、非常に大きな経済恩絵を得られると

    考えていたようです。 




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     そのような事も知らず、ドイツのルール地方の炭鉱労働者などは、

     武器を手に取って、共産革命を叫んで、 武装蜂起し、 ルール地方から

     どんどん共産革命を進めていったのです。

     つまり、 フランスの諜報組織から武器弾薬を受取り、共産革命を起こし

     たその後、 フランス人に武力討伐されることも知らず、 フランス人の手の

     ひらで、裸踊りして、 殺される運命にあったのです。



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     ヒットラーはこの当時、 しきりに共産革命に反対し、 ドイツ人の団結を

    説いてまわり、 無益な争いは、ドイツの破滅につながると、訴えていった

    のです。

    考えて見ると、 後から考えると、この考えは正しい考えで、 ヒットラー本人

    が考えたのか、他人の模倣かはわからないのですが、ヒットラーの考えとは

    逆にドイツは 1920年 内乱の時代にに突入していくのです。



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          ヒットラーが、ドイツ人の団結を叫び、 共産党を禁止し、共産

         主義者は、逮捕されて処刑されていき、根絶やしにされるのですが、

         このような、1920年の内乱騒動から、 ヒットラーは 国を滅ぼす

         危険思想と決めつけて、 共産主義者を嫌っていくことになっていった

         のです。



    【 明日に続く。】