第1449回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1448話 呉市刀剣倶楽部の事。 2016年2月19日金曜日の投稿です。
【 若い頃の明治天皇 】
今日からの昔話は、 もうー 戦後の現在、呉市の市民にも忘れ去られ、
おそらく、知る人がおらず、 現地の言葉で、「 おみゃーほんま きゃーの。」 と
お話を紹介したいと思います。
何であったかと言うと、 日本刀を鑑賞して、収集することでありました。
が、 日本刀を趣味にされていて、自ら作られた御刀に、菊の御紋を入れたと
言われていて、 これを 菊御作 と呼びます。
【 日本刀を鑑賞される 後鳥羽上皇 】
明治天皇は、朝廷の権威回復のため立ち上がり、鎌倉武士と対決した後鳥羽
上皇を、ずいぶん尊敬されていたようです。
臣下の 薩摩、長州などの実力者や、華族と呼ばれた 旧大名家の人達は、
明治天皇に、名刀を献上したり、 自らも、陛下に続けと、日本刀を趣味として、
収集することが、当時 流行していたのです。
そして、当時、裕福な国民の中にも、 陛下の真似をして、日本刀を集める趣味
が生まれていったのです。
当時、 江田島の北側に呉 と言う、要塞地帯があって、 ここの町に
呉市刀剣倶楽部【 くれし とうけんくらぶ 】と言うのが設立され、軍人や、政治家
商売人の金持ちが加入して、 陛下の真似をして日本刀を楽しんでいたのです。
当時の軍人には、 武器と言うよりは、 身を守る霊刀であったのです。
【 大正天皇こと 明宮殿下 】
ところが、大正天皇には、そういう趣味は無かったようです。
大正天皇こと、 明宮嘉仁 【 はるのみや よしひと】 殿下 は、記憶障害
という、 脳の持病があって、 どんどん悪化されて、私が海軍兵学校に
沼津御用邸というお屋敷があって、 そこで、長期の療養生活を続けられて
いたのです。
裕仁殿下が、摂政に就任し、 その行事などの国事行為を代行されていた
のです。
喪が明けた、大正4年に、大正天皇に太刀を献上しようと、こういう計画が
持ち上がり、呉市内の呉停車場こと、呉駅の東側の山の中腹に、亀山神社
という、神社があって、この亀山神社の中の一角に小さな鍛錬場を、当時の
呉鎮守府の世話で開設して、 ここに、刀匠 横山 祐義 【 よこやま すけ
とうよう】という名人を招いて作る事になったのです。
どうして、横山 祐義 さんを招くことにしたかというと、 明治21年8月13
実績があったと言う事と、 備前長船 横山祐成の長男で、備後福山藩の
お抱えの刀匠で、 元福山藩工と言う家柄も 当時としては、申し分ない人で
あったのです。
【 献上の太刀を前に、 逸見 東洋 夫妻 】
そして、逸見 東洋さん という人も、 刀工、 白銀師としても、有名な当時の
名人と言われた 名工でありました。
当時、太刀金具を造るのは、西日本では、東洋先生が有名な金工でした。
山の上にあったのですが、全焼してしまい 現在は知る人は、 私と、呉市の
刀剣商の 福永 昭二さん程度でしょうか、 この大正4年の11月23日に、
無銘の刀身を3口打ち上げ、 1番出来のよい1口に、横山 祐義さんが、自らの
名前を入れて、天子様に献上するのは、恐れ多いと考えて、差し表に、大正四年
十月吉日鍛造 差し裏に 萬 歳 【ばんざい】と、刻印して献上したのです。
その後、 欧州大戦こと、 第1次世界大戦の物資特需景気、シベリア出兵
の食糧バブルと続いて、 それが終わると、日本は不景気となりここ 亀山神社
日本刀鍛錬場も閉鎖されるのです。
【 当時の献上を伝える 大正4年の新聞記事 】
に入学する前年、 ある海軍の将官の尽力で、この鍛冶場が再開されるのです。
【 明日に続く。】