第1455回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1454話 呉市 亀山神社日本刀鍛錬場の事。
2016年2月25日木曜日の投稿です。
昭和20年、日本は空爆で焼け野原となり、多くの人が亡くなるのですが、
することとなり、 8月14日、横浜の陸軍部隊が反乱を起こし、自宅を焼き討ち
され、 命がけで、戦争を終結させた、鈴木 貫太郎 海軍大将の力添えで、
【 内閣総理大臣 鈴木 貫太郎 海軍大将 】
日本刀鍛錬場計画案がいよいよ実行に移されることになって行ったのです。
明治時代、 この亀山神社の境内に作られた、日本刀鍛錬場は、 山口県の
岩国市の刀工、 2代目 青龍軒 盛俊 こと、 岩本 精一 刀匠を 伍長
として、作刀が開始されたのですが、明治37年、 予算削減で閉鎖されて
いたのです。
再度、 亀山神社日本刀鍛錬場を再開させたのでした。
【 呉鎮守府 参謀長 正木 義太 海軍少将 】
この 亀山神社日本刀鍛錬場の再開には、 呉鎮守府 参謀長 正木 義太
海軍少将の水面下での尽力があったのです。
ところで、 再開された 亀山神社日本刀鍛錬場は、 鈴木貫太郎
元 備後福山藩11万石の御用刀匠であった、横山 祐義 刀匠が就任し、
そして、正木 閣下のいろんなつてで、広島市周辺の刀匠にも、声がかけられて
刀匠が集まったのです。
【 3代目 青龍軒 盛俊 こと 越水 藤一 氏 】
刀匠が招かれ、 そのほかには、 平賀 護国 刀匠 岡山県からは、 藤田 徳次
郎刀匠、 備中水田鍛冶の子孫、石田 愛太郎 刀匠、 横山祐義の門人の、
太田 利助 刀匠、 初代 青龍軒 盛俊の門人の藤原 吉光 刀匠、
当時、高齢であった、 2代目 青龍軒 盛俊 こと、岩本盛俊 刀匠も呉に
鍛錬場が再開されたと聞いて、戻ってこられたのです。
それから、 遠く福島県からは、早崎 信正 刀匠が、呉に来られて、
亀山神社で作刀を始められたのです。
日本刀鍛錬場が存在していたというお話は戦後の呉市民から忘れられ、知る人
は少ないのです。
と言うのが、この 日本海軍 亀山神社 日本刀鍛錬場は、その後、 鈴木閣下の
いろんな方面への働きかけで、順調に 日本刀の注文を受注し、それに合わせて、
軍刀の外装を作る、 白銀師、 研ぎ師、 鞘師、柄巻師など、多くの職人が
呉に集まり、 軍刀の生産拠点となって行ったのです。
いったのですが、 呉市の刀剣界の長老 福永 昭二氏のお話では、昭和19年
頃、 南方の陸軍部隊の軍刀や、鞘、柄糸の修善の目的で、 刀職者が呉の町
に集められ、 輸送船に乗って、南方の当時沼南【しょうなん】と、呼ばれていたの
ですが、現在のシンガポール方面に向かって 輸送船が出港したのだそうです。
福永さんは、当時まだ17才頃で、 若いので、来なくて良いと言われ、呉に
残ったそうですが、ところが 途中で、輸送船が米軍に撃沈され、全員戻って
こなかったそうです。
そのような事情で、 刀職者が、がたんと少なくなったところに、さらに追い打ちを
亀山神社 日本刀鍛錬場も その当時、空襲で焼失してしまい、以後、再建は
されなかったのです。
このような事情で、当時の呉の亀山神社日本刀鍛錬場の事を知る人々や、
当時の資料は、焼失したり、処分されたりして、残っていないのです。
です。
【 鈴木 貫太郎 内閣総理大臣 】
よって、再度、立て直しが行われ、 そして、最後は、鈴木 貫太郎 内閣
総理大臣によって、 日本の太平洋戦争の幕引きが行われ、 消えていった
のです。
今日は、戦後人々から忘れ去られた、呉市 亀山神社日本刀鍛錬場
の昔話の紹介でした。
【 明日に続く。】