第1458回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1457回 巡洋潜水艦の建造の事。 2016年2月28日日曜日の投稿です。
みなさん、 19世紀、日本で言えば慶応から明治にかけて、世界の多くの人種
の人達が、アメリカ イギリス フランス オランダ ドイツなどの西洋諸国に武力に
よって占領され、 植民地にされ、 縄で縛られて、奴隷で売られていったり、
いろんな悲劇が起こっていったのは、歴史が語るところです。
西洋諸国の支配を受けなかったのか、 その秘密というのは、何であったのか。
日本人というのは、 日本の文化を維持しつつ、西洋の優れた部分を、観察し、
その観察した情報に元図いて、 その技術を入手して、自分達で模倣して生産
する技術があったから、 植民地にならなかったのです。
もし、このことが出来ず、 物を作るという事が出来なければ、修理も出来ず、
イギリスや、フランス、 アメリカなどが持ち込んだ、アヘンによって、我国は、
植民地にされ、 薬物に汚染され、支那人や、台湾のようにアヘン患者が
増えてとんでもない事になっていたでしょう。
他の国の人達は、お金を出して兵器を買うことはしても、自ら作ろうとしな
かった、 つまり、 そのことは使用中、物が故障したりしても修善が出来ず、
せっかく購入した兵器が使い物にならなくなっていく、 こう言う事につながって
行ったのです。
ところで、 西洋の優れた部分を観察して、情報を入手する、 こう言う事を
日本は、 陸軍と海軍に別れてバラバラで大正時代に行っていて、 つまり
二重行政であったのです。
【 当時、フランスに駐在していた、井上 成美 海軍中佐 後の大将 】
陸軍の第1師団がおこした226事件で、いち早く、横須賀で討伐部隊を編成し
米内、山本、井上の三人で、「日本が欧米と戦争をするのは破滅につながる。」
と叫んで、 日独伊三国同盟に命をかけて反対した人として、知られていますが
井上閣下は、大正時代はフランスのパリに駐在し、 新しい軍事技術の情報収集、
敗戦国のドイツなどからの武器の接収を行っていたのです。
それが、 霞ヶ浦の飛行船部隊の元となる、飛行船や、潜水艦など多岐に
わたっていたのです。
ガソリン車がほとんど走っていない、馬車や馬が走る時代に登場した
ドイツの新兵器の潜水艦は、 当時、イギリスやフランス、アメリカ
日本などの艦艇を無差別攻撃して、大きな被害をあたえたのです。
性能が低く、 潜水事故が多発して、 沈んだら浮いてこないという、そういう
代物で、 当時、浮上航行は許可が出ていたのですが、必ず、随伴船をつけて
事故が発生した場合、すく救助出来る体制を組んで、運用する通達が出て
いた程度信用性が低い潜水艇であったのです。
考えて見れば、アメリカとしたら、秘密兵器を売るわけが無いわけでして、
使い物にならない代物を 日本に売りつけ、もうけて、次の兵器の予算に
回していたのです。
【 第2航空戦隊 司令長官 山口 多聞 海軍少将 】
ところで、フランスで、井上 成美 海軍中佐が、敗戦国のドイツの潜水艦を
手に入れて、 これを日本に持ち帰り、研究して、日本独自の潜水艦を建造
しようという、 こういう事が計画され、 日本に持って帰るといっても、当時
大変な作業であったのです。
まさに、動かしたことのない外国の潜水艦を数ヶ月かけて日本に回航する
命がけの航海であったのです。
つまり、日本人は、動かしたことがない潜水艦を、まず貨物船の乗船して、
遠くインド洋、アラビア海、 地中海、大西洋を経て、 フランスまで行って、
「あーでもない こーでもない。」と、 自分達で調べて動かすわけですから、
大変な作業であったのです。
【 日本にUボートを持ち帰った、山口 多聞 海軍大尉 左端 】
そして、日本人がドイツの潜水艦のUボートを、苦労して持ち帰った、このデーター
というのは、貴重な潜水艦の長期航海運用の経験となったのです。
潜水艦の中での長期航海の実績、 つまり 食事の栄養学から機関の運用に
至るまで様々なことが、日本海軍にもたらされていったのです。
【 上海で接収された ドイツの潜水艦 】
日本海軍は、ドイツの潜水艦を日本国内で模倣して、建造し、 日本独自の
長期航海が可能な潜水艦を作ろうと計画を進めていったのです。
は、 長期間の航海というのが燃料などの問題で不可能であったのです。
ドイツの潜水艦のように、 長期間活動が出来て、外洋の航海が可能な、
航続距離の長い潜水艦がどうしてもほしかったわけです。
この潜水艦のことを、 当時、 巡洋潜水艦建造計画と呼んでいたのです。
の少し前程度、 兵庫県の神戸市の造船所で、 巡洋潜水艦の建造が
終了し、 公試 つまり 試運転を行う事になっていったのです。
【明日に続く。】