第1517回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1516話 海軍兵学校 制裁訓練の事。 2016年5月16日月曜日の投稿です。
を小説にしまして、 それを映画会社の面々が極端に演出し、 水交会のメンバ
ーや、私達もそれらの映画を見て、 批判の火が上がったのです。
どういうことかというと、 後輩の顔を見れば、先輩生徒が平手打ちを加え、
暴力行為を行い、耳の鼓膜が破れたとか、 そんなことが紹介され、 母校の
イメージがずいぶん損なわれたと言う物であったのです。
自分達の母校、 海軍兵学校の看板に泥を塗る行為と断じたわけです。
私達の在校中は、 校内は暴力禁止命令が発令され、 後輩生徒に手を出すと
懲戒免職物であったのです。
暴力が御法度であったのですが、 当時の様相として、 クラス【学年の事】の
上の生徒などが指導を入れる、 分隊を束ねる、監事【 海軍大尉 】や、それを
補佐する監事附【 かんじつき 海軍曹長】 が、戦後風に言うと、説教を行う
そういう風潮は当時良くあったのです。
これを 修正 【 しゅうせい 】 と呼んだのです。
この修正を行うために用いられたのが、 暴力ではなく、訓練であったのです。
これを 制裁訓練 【 せいさいくんれん】 と呼びました。
制裁訓練で一番多かったのが、 分隊の温習室【 おんしゅうしつ 勉強部屋の事】
壁際に置いてあった、小銃で、 両手で持って、上下させる、据銃訓練であった
のです。
第52期が在校中の大正時代末期、 随分やらされました。
どうしてそうなるかというと、 巡検など、 多くが建物の中で行われまして、
そこで、ギロリと睨まれて、「 なにか、 この ざまは。」 と、 こうなるわけです。
そのような事情で、 掃除も出来なかった生徒が、 人一倍きれいに清掃を
行い、身の回りの整理整頓をするように教育指導をされていったのです。
こう言う教育を受けるのは良かったのですが、 艦艇などにこれらの生徒が
士官として配属され、 部下に、 こういう整理整頓を命令するのは良いのですが、
その後、結婚して所帯を持ったりすると、 隊内と家の切り替えが出来ない人、
そう言う人が多かったのです。
家に帰って、 女房殿に、「 なにか、このざまは。」と、 整理整頓を強要する
わけです。
ご婦人方も、 これでは たまった物ではありません。
家の中で、 家庭奉仕に徹する、 こう言う事が出来ない面々は、離婚に至って
行ったのです。
ところで、 私達は前話で紹介した、海軍兵学校 大講堂の前の綱引きで
負けてしまいまして、 制裁訓練を受けることになっていったのです。
【 明日に続く。】