第1559回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1558話 第15回衆議院議員選挙の事。 2016年6月30日木曜日の投稿です。




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  関東大震災から4ヶ月後、 多くの企業や商店が一夜にしてなくなってしまい、

多くの銀行の債権や、 約束手形が不渡りとなり、 その銀行自体が地震で倒れて

しまい、 貯金していた市民の財産があっという間に無くなっていき、 当時は、

地震で多くの人が亡くなり、 金融自体が大きく混乱し、 早急なる対策と、その

災害復旧の予算審議などが求められていた当時、 1月末に、 清浦 奎吾

内閣総理大臣は、 自分が総理大臣になろうと画策する、 与党 立憲政友会

高橋 是清 総裁と、 野党第一党の憲政会の党首 加藤 高明 議員らが、

清浦内閣 不支持を表明し、 帝国議会が またまた なにも決定できない

ような空転する事態に至り、 衆議院を解散し、 総選挙に打って出たのです。



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                    【 内閣総理大臣 清浦 奎吾 】


  清浦総理と その閣僚は、貴族院議員で選挙などなく、永遠に議員の身分が

保証されていたので、 はっきり言うと、嫌がらせであったのです。

 清浦総理の周辺の取り巻きは、 A という財閥から巨額の現金を調達し、

 与党の 立憲政友会の総裁 高橋 是清 に不満をいだく衆議院議員を現金で

 籠絡し、 分裂工作を仕掛け、 清浦内閣に協力するように裏工作していったの

 です。


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 【 分裂した 床次【 とこなみ】 竹二郎 衆議院議員 鹿児島選挙区 】


   そのような中、 解散総選挙で選挙資金を必要としていた、与党 立憲政友会

 の床次 竹二郎 議員ら149人は、 高橋 是清 総裁を 放り出して、 清浦

 総理支持を表明し、 集団離党して、 政友本党 なる 政党を作って、選挙

 に打って出たのです。



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          【  与党であったが 野党に転落した 高橋 是清 総裁 】


 このような出来事があって、2月初旬に 衆議院は解散されたのですが、

 関東大震災の影響で、 選挙が行えない 東京府、神奈川県などの事も有り

 100日 以上も過ぎた、 大正13年5月10日に投票日が決定されたのです。

 高橋 是清 立憲政友会 一派は、 「 みなさん、これ以上 外国に借金を作ると

 大日本帝国は倒産します。 予算の範囲内での震災復興をーーー。」 と訴えて

 選挙に臨み、 そして、 分裂した 政友本党の 床次 議員らは、「 本格的に

政府が 予算を用意して 大規模な震災対策を打って、経済の底入れを行うべし。」

と叫んで、選挙が行われていったのです。



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   ところで、選挙の結果はどうであったかと言うと、 それまで与党の最大政党

  であった、 立憲政友会 の高橋是清 元総理の一派は、大きく議席を減らし

  半分以下の100議席になり、 第3党に転落していったのです。

  そして、 分裂した 政友本党も、33議席も減らして 116議席となり、野党に

  なって行ったのです。

  減った、議席はどこに行ったかというと、 当時野党の第一党の 憲政会に

  流れてしまったのです。

  憲政会は 三菱財閥の政党で、豊富な資金力で 全国に立候補者を擁立し、

  選挙戦を行って、 多数の当選者を出していったのです。

  といっても、 151議席にとどまり、 与党となったのですが、 少数与党

  なって行ったのです。


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          【 第一党となった 三菱の 憲政会 加藤 高明 元外相 】


    このような出来事があって、 加藤議員はやっと、与党になれたのですが、

  問題は、 自身が総理大臣になるには、 清浦 奎吾 内閣総理大臣にやめて

  もらう必要があったのです。

  つまり、 清浦奎吾内閣には、総辞職してもらう必要に迫られていたのですが

  清浦 奎吾 内閣総理大臣一派は、 続投を考えていたのです。


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   実は、 清浦総理側に、 床次 議員らを引き抜く現金を用意した Aという

  財閥は、三菱で、 それが成功して 最大与党の 立憲政友会は 空中分解し、

  自らの党、 憲政会が与党になれたのですが、 今度は、 握手をしていた

  清浦 奎吾 総理達を 総辞職に追い込んでいくことになって行くのです。

  それと合わせて、今度は、帝国議会で採決に必要な議員を確保するため、

  どこかの政党と、連立を組む政界工作を進めていく事になっていったのです。 



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  一般国民もそうですが、 陸軍も海軍も 私達若い者は、これらの政治の動きを

  多いに不満を持ち、 批判していくことになって行ったのです。


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  議会政治というのは、 独裁者の暴走を抑止するという 良い面もあるのですが、

  少数与党であるとか、 安定した採決に必要な議員数がないと、なにも決定

  できないという 大きな欠点があるのです。

  当時、 少数政党が乱立し、 それぞれの政党が、法案に協力する見返りに

  選挙資金を要求し、 法案のつどに 巨額の現金が右から左、左から右に

  と動いていき、 それを用意できる人が 力を得ていったのです。

  この資金を用意するために 利権の巣窟が生まれ、汚職収賄の源泉に

  なって行ったのです。

  そして、これらの争い事は、闇から闇へ、 反社会勢力の資金源にもなって

  いったと言うのが、当時の汚れた政治の様相であったのです。



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  そのような訳で、 関東大震災で多くの人が救いを求めている中、残念な事に

  日本の帝国議会は、 政争に明け暮れていたのです。

  つまり、関東大震災の被災者の事は、二の次になっていたのです。



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  そして、どんどん 日本の経済は悪化していき、 アメリカの経済恐慌の

  影響もあって、 数年後、 昭和恐慌が発生していくのです。

  何しろ、 凶作も重なって、 村役場が村の女の子の身売りを仲介するという

  戦後の現在では考えられない 出来事が続いて行ったのです。



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  これらの事は、 その後、 陸軍や海軍の若い将校達が、昭和維新と称して

  世直しを行おういう根拠になって行ったのです。


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   これらの議会政治の欠点は、 フランスでも、ドイツ、イギリス、アメリカでも

   イタリー王国でも 同様であったのです。

   当時の政権は、 迅速に対処したくとも、出来ない、何も決定できない、そう

   言う議会政治が続いていたのです。

   そして、イタリー王国こと、イタリアでは、暴力組織の親分が 首相や、閣僚と

   なり、議会をコントロールしていたのです。


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だから、ムッソリーニ先生は、腐った議会を停止し、 ひとりの責任者が責任を

もって 数年間の単位で、国民の生活の向上の為の政権を担当すべきだと

主張して、ファシズムを始めていったのです。

戦後、ファシズムという言葉は、 悪い意味で知られているのですが、1924

年 大正13年当時は、 国民の生活向上を考えて、責任者が政治を行うという

そういう意味合いがあったのです。


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     ヒットラーは、それを模倣して、 大きな破綻したドイツ経済を立て直す事に

  成功したのです。

  第2次世界大戦以前の 世界の評判は、 すぐれた政治家として 有名な

  人であったのです。


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  順番に、 イタリー王国と ドイツの 経済復興のお話も紹介して行きますが、

  アメリカや、イギリス、 フランスでも、まねをして、 ファシズムをと言う、そういう

  考えの政治家が多く出ていったのです。

  これらの人のことは 戦後語られず、知る人は少ないのですが、 そういう中で

  陸海軍の若い将校達は、腐った帝国議会と 政治家を追放し、 昭和天皇の元で

  新しい国民の為の政治を行うことを考えて、 決起をしていくことになるのです。

  本当に、国民の生活を当時考え、 将来を心配していたのは 彼等だったのです。

  しかし、別の方法はなかったのかーーーー。 考えさせられる部分です。


   【 明日に続く。】