第1569回 昭和の伝道師 【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1568話  練習艦隊司令部の事 2016年7月10日日曜日の投稿です。



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 「 貴様、 練習艦隊とは どういう意味で、 どういう艦隊だ。」 と、問われると

戦後の現在、 明確に、すぐ解答出来る人は 海上自衛隊の人を除いて、少ない

のが現状です。



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私達が、江田島海軍兵学校で教わったのは、練習艦隊とは、「 要員の訓練

錬成に特化した艦隊であります。」 と、解答するのが 明解な解答となるのです。

戦後の 海上自衛隊では、 たしか、練習艦隊の司令は、 海将補がその任務に

つくことになっていたと思うのですが、 大正13年の当時は、海軍中将が、代々

練習艦隊 司令長官の席に座ることになっていたのです。



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         【 練習艦隊司令長官 古川 鈊三郎 海軍中将 福井県出身 】


普通の人が想像するのは 海軍の司令部とは、 司令長官がいて、参謀長がいて

参謀がいてーーー、などと、想像されると思うのですが、 実は 当時56名程度

の司令部要員で働いていたのです。

  ずいぶんな、大人数であった訳です。

当時の練習艦隊の 司令長官は、 古川 鈊三郎 【 しんさぶろう】海軍中将

でありました。


  その司令長官のおそばには、 秘書官のような 副官という職があって、

  副官 尾崎 主税 【 おざき ちから 】 海軍少佐 が 司令長官の周囲の

  一切を取り仕切られていたのです。




  当時の練習艦隊には、原則 副司令官たる、参謀長は いなかったのです。


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       【 先任参謀 日暮 豊年 【ひぐらし とよたか】 海軍中佐 】


  司令部の司令長官の次席は、 当時 日暮 先任参謀という海軍中佐が

実務を取り仕切られていて、 この方は、後に 巡洋艦 青葉、 戦艦 金剛の

各艦長を歴任され、 海軍少将に進級された人でありました。



その下に、参謀として、 矢野 志加三【 しかぞう 】 海軍大尉がおられて

この方は、みなさんよくご存じの 空母対空母の初めての航空戦が行われた

珊瑚海海戦を統帥していた 第四艦隊の 井上 成美 海軍中将の下で、

参謀長を務められてい人で、海軍中将に進級され、 海軍兵学校第43期の

恩賜の成績優秀者で、海軍大学25期 次席 【成績が2番目に優秀】の卒業者

であったのです。




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          【 艦隊機関長 吉岡 保貞 海軍機関大佐 海機11期 】



   そして、艦隊の燃料や、物資などを取り仕切る 艦隊機関長には、吉岡海軍

   機関大佐という人がいて、 この方は、後に 海軍機関中将に進級される

   機関屋の重鎮であったのです。

   その次に、津田 勝次 機関少佐 【 海機21期】 後の 海軍機関少将が

   実務を取り仕切っていたのです。

   津田 機関少佐の補佐で、山田 光太郎 機関大尉が、 出雲に乗り組まれ

   ていたのです。 




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               【 艦隊軍医長 石黒 順二 軍医大佐】


   その次に、 艦隊軍医長 という職があって、 石黒 軍医大佐が、艦隊の

   病院の先生として乗り組まれていて、 巡洋艦 浅間 には、杉浦 矩郎 

   軍医大尉が、  巡洋艦 出雲には、 藤野 寛 軍医大尉が、 巡洋艦

   八雲 には 山澄 忠三郎 軍医中尉が乗り込まれ、 私達の面倒を見て

   いただくことになって行ったのです。



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            【 練習艦隊旗艦 装甲巡洋艦 浅間 9700トン 】


 そして、司令部が置かれていた 装甲巡洋艦 浅間 には、 そのほかに、

 岩崎 齋介 薬剤大尉 がおられて、薬の調合などをされていたのです。

 つまり、薬剤師のような仕事です。
 
 それから、 民間人の歯科医の橋元 伊八郎 先生が、歯の治療を担当されて

 いて、虫歯になったら、 お世話になる事になっていたのです。

 そして、 兵学校の 民間人の教授 齋藤 定蔵先生も 乗艦されていたのです。

 
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   司令部には 軍楽隊も配置されていたのです。

   大正13年当時の指揮官は、 内藤 清五 特務少尉が統帥していたのです。

   それから、 司令部には、 和食と洋食の料理人が乗り組んでいて、年間契約

   であったのですが、 その給料は 海軍大佐よりも高給取りであったのです。


   

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     当時 この料理人の役職を 割烹 【 かっぽう】 と呼んでおりまして、

     植松 喜代次さん、 関岩 太郎さん 遠藤 貞次さん という人が勤務

     され、 この人達は、 レシピを考えて、炊事係の下士官や水兵に指導する
 
     のが 仕事であったのです。

     浅間、 八雲、 出雲 のうち、 浅間に 特別に 割烹が乗り組んでいたの

     で、浅間の 士官室の幹部の料理は、 他の艦より、内容が良かった

     そうです。



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   そして、 下士官や 水兵の取りまとめとして 司令部附き 1等兵曹という

   役職があって 村松 治郎吉 1等兵曹という、こわい年配の兵曹がいて、

   その下に、兵員40名が配置されていたのです。

   司令部附き 1等兵曹というのは、 戦後の現在で言う、海上自衛隊

   先任伍長 職のような、その艦艇だけでなく、 各艦の下士官 水兵を 統帥

   する役職であったのです。
 


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    紹介したような事情で、 練習艦隊 旗艦 浅間 には、726名の

    佐官、尉官、下士官、水兵 が乗り組んでいたのですが、 56名の司令部

    が艦内に同居していたのです。

    実に、多くの人が 仕事していたのですが、順番に紹介して行きたいと

    思います。


    【 明日に続く。】