第1588回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1587話 だいなんこうの事。  2016年7月30日土曜日の投稿です。





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    装甲巡洋艦 八雲での 私達 海軍兵学校第52期卒の八雲 少尉候補生

 部隊の自己申告は、いよいよ私の番になっていったのです。

 すっと、 私の前に 副長の羽仁 潔 海軍中佐殿が立たれ、 私は自分を覚えて

 もらい、当時、 少しでも覚え目出度くなろうと、 足のかがとをつけて、背筋を伸

 ばし、 ケツの穴に力を入れて、 すーーーーっと、息を吸い込んで、雷のような

 大声で、「 海軍兵学校 第52期卒、 奈良県 畝傍中学 【 うねびちゅうがく】卒

 淵田 美津雄であります。」 と、 精一杯の声を張り上げたのです。

 黙って聞いていた羽仁海軍中佐殿は、「 うむっ、 元気があってよろしい。」

 「 貴様は奈良県のどこに家があるのか。」と、問われたので、 私は、「 奈良県

 の葛城村【 かつらぎむら】であります。」と解答すると、 羽仁 海軍中佐殿は、

  「 葛城というと、 だいなんこうの赤坂城の近くか、 行って見たい物だ、

  尋常小学校の教科書で勉強して以来、1度は訪れて見たいと考えておった。」

  「 貴様は、赤坂城の古戦場跡に行ったことはあるのか。」 と、聞かれたので


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  「 自分は学校の遠足で、千早城跡に行ったことがありますが、 赤坂は

   訪れた事がありません。」 と返事をしたのです。

  羽仁 海軍中佐殿は、「そうか、 正直でよろしい。」と、 語られ、次の鈴木

  少尉候補生の方に行かれたのでした。



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 羽仁 海軍中佐がお話になった、「 だいなんこう。」 とは、 戦後の学校教育

から削除され、 現在は知る人が少ないのですが、 大楠公 と書いて、だいなん

こう と読むのです。



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  そして、 赤坂城【 あかさかじょう】と千早城【 ちはやじょう】と言うのは、楠木

  正成 【 くすのき まさしげ 】が、当時の南朝方の後醍醐天皇に味方して、

  天皇親政を唱え、 立てこもって、 北条氏の鎌倉幕府の軍勢と対決した古戦場

  なのです。


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   明治時代に入ると、当時の尋常小学校では、教科書で だいなんこうの

  授業があって、 楠木 正成 親子のように、天皇に命を捧げて、ご奉公しないと

  ならないと、 幼児の頃から教育が行われていたのです。


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  南北朝時代の動乱を記録した書物、太平記の中の物語を、明治時代に文部省

 が都合が良いように編集し、全国の学校で、大楠公 の授業が行われ、天皇陛下

 に命を捧げる美談として教師によって紹介され、 多くの生徒がそれを信じたの

 です。


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当時の文部省から、幼児の頃から 大楠公 【だいなんこう】の教育を受けていった

世代は、大人になって、 天皇陛下にご奉公し、 大楠公 親子のように、命を

投げ出して、死んでご奉公するのが当たり前だという考えというか、思想に染まって

行ったのです。



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   陸軍でも海軍でも 一般人でも、 このような教育を受けて、それが当たり前だ

と考える人が指導的立場について、 指導していった結果、 多くの命が、 「 大楠

公のように。」と 言う言葉で、 人命軽視が日常的に行われていったのです。

これらの事が、多くの人を 死に追いやり、 人命が失われていき、 日本が負けて

行く 原因の1つになって行ったのです。

 このような訳で、 当時の文部省や、教員も 戦争犯罪人な訳です。


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   この翌年の1925年 大正14年から、 加藤 高明 内閣で、治安維持法

 制定され、 平和を唱える人はこの法律によって弾圧され、拷問され殺害され

 学校には、陸軍の軍人が常駐して、校長、教頭、教員を監視し、学校で人殺しの

 訓練が行われる事になっていくのです。



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 そして、 楠木 正成は、 600年以上たって、 天皇陛下に忠孝を尽くした

 偉大な武将として、全国に 銅像や、神社が作られ、 人々を支配するのに

 利用されていったのです。

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   【 赤坂城、 千早城を築城し、籠城戦を展開した 山下 奉文 陸軍大将】



このような経緯から、昭和19年 フィリピン ルソン島で、陸軍の山下奉文 陸軍

大将 は、 大きな軍需工場を備えた地下要塞、 赤坂城、 千早城を建設し、

持久戦を行って、 ゲリラ戦を行って行くのですが、 また、 順番に紹介したい

と思います。




【 明日に続く。】