第1607回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1606話 八雲士官候補生部隊、鹿児島見物の事。
                       
                         2016年8月21日日曜日の投稿です。





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  大正13年こと、1924年の7月の後半の暑い日、 私達は、鹿児島県出身の

 明治学院中学卒の赤塚 栄一 【 後の 白濱 栄一 海軍大佐 】の指揮で、

 鹿児島県の桜島に転進し、 そこで、 桜島の山頂まで登山した後、 配属先

 の八雲に戻って、 夕刻、 初めて鹿児島湾の海水のお風呂に入って、汗を

 流したのです。

 汗だらだらでしたので、 ずいぶん、よい気分であったのを記憶しています。

 みなさん、なれると みんなで一緒に入る海水のお風呂も なかなか よい

 ものです。


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  【 当時の鹿児島湾の様子 湾内は練習艦隊 旗艦 浅間 と推測される。】  



  翌日、蒸し暑い うだるような夜を過ごし、朝方、涼しい時間帯に、うとうと寝て

起床ラッパで、 早朝にたたき起こされ、 次の日を迎えたのです。



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 次の日に、何をさせられるのかと、心配していると、 鹿児島市内の史跡を、

 部隊指揮官 鹿児島県出身の 赤塚 栄一 士官候補生の案内で、見物する

 ことになって行ったのです。


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        【 大正8年こと1919年頃作られた、鹿児島市内の地図 】




  当時の鹿児島の町は、 そうーー、町の人達が、なにを話しているのか、よく

わかりませんでした。 ここに来て、 共通語という物が大切で、文部省が、共通語

の教育に力を入れているのがわかったような、そんな気がしたのを覚えています。




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      【 当時の城山の 西郷隆盛の死去した場所の碑を撮影した古写真】


   鹿児島に、 城山という 小高い丘があって、 私達はその山中に転進して、

赤塚 士官候補生の西郷隆盛公のお話に聞き入ったのです。

「 これが、南洲公の終焉の地の碑でごあんどーーーーー云々。」 と話していて

隣の誰であったか、 忘れてしまいましたが、小声で、「 南洲 公とは、誰のことか、

島津の殿様か。」と聞くので、私が、「 なんしゅうこう 言うたらやな、 西郷 隆盛

はんの事やがな、 ここで、 作法に則って、切腹したんや。」 と答えると、 その

候補生は「 おうーー、上野の恩賜公園の西郷さんか。」 と、言っていたので、 

東京の方の士官候補生であったのかもしれません。

私達は、 いろんな場所を 暑い セミが鳴く、鹿児島の周辺を 隊列を組んで

見物していったのです。

当時、 冷たい水を好きなだけ飲みたかったのですが、 そんな勝手な行動は、

部隊行動の中、許されなかったのです。



【 明日に続く。】