第1612回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1611話 佐世保防備隊司令 高橋節雄 海軍少将の事。

                          2016年8月26日金曜日の投稿です。



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                 【  日本海軍 連合艦隊 旗艦 長門 】


  ところで、私達が佐世保に上陸して、お話を聞くことになった 佐世保防備隊司令

の 高橋 節雄 と書いて、 たかはし よしお と読みます。

 当時、海軍少将に進級され、 前年の役職は、竹下 連合艦隊司令長官が座乗

する、戦艦 長門の艦長をされていた人でした。

 以前紹介したのですが、 関東大震災の時、連合艦隊の 第1、第2艦隊は、

紅白に別れて、朝鮮半島遼東半島の沖合で演習をしていたのですが、

その時の長門の艦長で、 その前は、戦艦 山城の艦長だった人でした。


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 つまりどういうことかというと、 艦隊の出世の花道を進んで、連合艦隊の旗艦の

艦長を勤めて、関東大震災の後、 海軍大佐から、海軍少将に進級し、佐世保

防備隊の司令として着任し、 私達の前に立ったと言うわけです。


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 高橋節雄 閣下は、その後、 故郷の 島根県 松江市の市長を4年程度勤め

たり、 神奈川県 横須賀市の市長を勤めたり、政治家としても活躍した人でした。


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【 大正13年 1924年に行われた 第43潜水艦沈没事件の葬儀の様子 古写真】



  そのお話とは、「 帝国海軍軍人が、あと30分で 自分が死すとわかった時、

  どうあるべきか。」 と言う、そういうお話であったのです。

  人間、私もそうですが、元気な時とか、 そんなことは考えもしないわけですが、

  自分が死ぬ時、 どのような姿で死ぬか、 葬儀はどうするか、 墓はどうするか、

  いろんな事を考えるわけですが、 「あと30分で自分が死ぬ。」とわかった時、

  それは、多くの海軍将兵が遺書を書いたのです。

  私達は、 高橋閣下のお話を聞いて、休暇で家に帰った時、 もしもの時の為に

  遺書を書いて、仏壇の引き出しの中に入れて、備えることになって行ったのです。


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【 大正13年当時の第43潜水艦 慰霊祭の様子 中央 伏見宮 殿下 】



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    【 第43潜水艦 救難電話浮標の現物の古写真  大正13年撮影 】






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この沈没事件、水中と海上とで電話による通話が行われ、死にゆく人の会話が

記録されるという、そういう痛ましい事件でありましたが、 事故当時、私達は

海軍兵学校の中にいて、 詳細は知らなかったのですが、高橋閣下のお話を

聞いて勉強することになって行ったのです。


  【 明日に続く。】