第1616回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1615話 桑島 新 海軍大尉の事。 2016年8月30日火曜日の投稿です。





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  大正13年 当時の佐世保防備隊 司令 高橋 節雄【よしお】海軍少将のお話

 は、衝突沈没した第四十三潜水艦の艦長のお話になっていったのです。

 私達は、 マイクも何もない時代、 耳をそばだてて、高橋閣下のお話を聞いたの

 です。




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      【 軽巡洋艦 龍田に 衝突されて沈没した 第四十三潜水艦 】 



  第四十三潜水艦の当時の艦長は、 不在であったというのが正式なところ

で、そして、潜望鏡に衝突してきた 龍田の艦長も、当時の軽巡の艦長は海軍

大佐が勤めるポストであったのですが、正式には不在であったのです。

日本海軍の潜水艦は、海軍少佐が艦長を勤めることになっていて、当時不在で

あったのです。

そして、 その代理として、発令所で指揮をとっていたのが、桑島 新 海軍大尉

であったのです。




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       【 桑島 新 海軍大尉 殉職後、海軍少佐 海軍兵学校 第40期卒】




   桑島 新 海軍大尉は、海軍兵学校 第40期卒 145人中、115番で卒業

し、 同期の首席は、岡 新 海軍中将、 次席は、山口 多聞 海軍中将、 9番

が、 連合艦隊参謀長を務めた、 宇垣 纒 海軍中将、 20番が 大西 瀧治郎

 海軍中将など、英傑揃いのクラスの卒業で、 明治22年11月8日 栃木県の

 那須郡西那須村生まれ、 海軍兵学校を卒業後、 宗谷、平戸、比叡、浅間、

津軽、 砲術学校、水雷学校、 後に 駆逐艦 叢雲、そして、三笠と勤務して、

大正7年から、第11潜水隊に勤務し、 以後6年間潜水艦に乗っていたそうです。

生まれたのが明治22年、西暦1889年ですから、事故当時、35才であったと

言う事になります。



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         【 桑島 新 大尉が防備隊の講堂で数日前に書いた黒板の古写真 】



  ところで高橋閣下のお話では、桑島 新 海軍大尉は、エスペラントの専門家

として海軍の中でも有名な人であったのです。

 「エスペラントとは なんやねん。」と、戦後の人は思うでしょうが、戦後の世界の

公用語は英語ですが、 大正時代はそうではなく、 世界の公用語エスペラント

語であったのです。

大正時代の当時は、国際補助語と呼ばれていたのです。

 「 ほんまかいな。」 と、言う人がいらっしゃると思うので、少し簡単に紹介すると、

 当時、大ドイツ帝国に占領されていたポーランドユダヤ人の眼科医のラザロ

 ルドヴィコ ザメンホフ先生と言う人が、 簡単に世界の人が覚えられて、話せる

 言葉が作れないかと考えた言葉と文字が、そのエスペラント語であったのです。

 この先生の ペンネームが、 エスペラント と言う名前であったそうで、そこから

 名前が来ているそうです。



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       【ポーランドの眼科医 ザメンホフ先生、ペンネームを エスペラント 】


ザメンホフ先生は、世界の人が同じ言葉を話して会話出来れば、どれだけすばら

しいことか、 そうすれば、いろんな可能性が広がるのですが、 覚えやすい、

文字を書きやすい言葉を考えるべきだと考えて、出来た言葉に、自分のペンネーム

の エスペラント と言う名前を付けたそうです。

桑島 新 海軍大尉は、 毎週2回、 佐世保防備隊の講堂で、エスペラント語

講義を行う、講師というか先生であったそうです。

こういうお話を 高橋閣下からお伺いして、「 ほうーーーたいしたもんやのー。」と、

みんな感心したわけです。

すると、高橋閣下が、 「 貴様らの中で、エスペラント という単語の由来というか

意味が誰かわかるものはおるか。」 と、問われると、 私達の部隊指揮官の赤塚 

栄一 【 後の白濱 栄一 海軍大佐】少尉候補生が手をあげて、「 はっ、エス

ラントとは、希望する者、又は、希望する人と和訳するのが正しいと思います。」と、

解答すると、高橋閣下は、「 うーーん、よろしい。」 と満足そうな顔をして次のお話

を続けたのです。

私は、当時、「 さすがは、鹿児島県の進学校 明治学院中学卒の生徒や。」と、

ずいぶん当時感心したのでした。


  【 明日に続く。】