第1626回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1625話 電話浮標を海上にあげるの事。2016年9月9日金曜日の投稿です。
1924年 大正13年の3月19日 朝 8時55分 大音響とともに、艦が
横倒しとなって、なにが、なにやら、わからないうちに海底の下に沈んで
鎮座した第四十三潜水艦の 小川 昊 機関大尉と、 機関長の市村 次一
機関中尉らは、浸水が止まらない機械室を放棄して、 艦尾の電動機に退避
し、 後部から 発令所に連絡を取ろうとしたのですが、まったく連絡が付かず、
電源が喪失し、暗闇となったそうです。
【 第五十九潜水艦 機関長 小川 昊 機関大尉 大阪府出身】
小川 昊 機関大尉らは、 市村 機関長と話し、「 駆逐艦と衝突して、
艦が沈んだに違いない。」と結論に達し、 遺書によると、5分後の9時に、
生存者に電動機室の防水作業を懐中電灯2個の明かりで行うように指示を
出し、 電話浮標を分離する決断を独断で行ったとあります。
【 第四十三潜水艦 断面図 】
当時の記録では、 救難電話浮標は前部の士官室の上部と、 後部は、小川
機関大尉らのいる 電動機室の上部にあって、 後部の救難電話浮標をあげた
ようです。
【 大正13年撮影 第四十三潜水艦の救難電話浮標 】
つまり、 遺書によると、軽巡 龍田と衝突後、 なにもわからない状態で
機関室の士官2名は、 「 駆逐艦と衝突したのであろう。」と想像し、艦長や発令所
の士官と連絡が付かないまま、 暗闇の中で独自の決断をしたようです。
【 当時の救難浮標の 銘板 拡大写真 大正13年撮影 】
そして、9時15分、 事故から20分経ってからの記述で、避難していた電動機室の
床下から 海水が至る所から噴き出して、防水作業に追われると書いてあり、
床下に、海水が入り、 水圧がかかって、吹きだしたか、 沈没した場所の
海底に岩があって、 その上に潜水艦が着底して、 船底が破損したかして
いたようです。
9時20分 事故から25分後、 水中信号機の音響を聞く【他艦よりの】と
書いてあり、 水中信号機という装置が電動機室にあったようですが、
何もわからなかったようです。
9時30分 事故から35分後、 水中信号機に反応がなく、 ハンマーで
左弦40度に傾いた、潜水艦 電動機室の内側の壁を叩くと、どういう訳か
どっと、至る所から海水が漏れ出し、 防水作業に追われたとあります。
つまり、水圧で潜水艦に荷重がかかり、至る所から小さな漏水が続いていた
ようです。
艦内は暗闇で、 懐中電灯2個しかなく、 その内1つを使用して、防水作業を
行って行ったようです。
【 明日に続く。】