第1628回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1627話 第43潜水艦 穴見 儀三郎 海軍機関兵曹長の事。

                      2016年9月11日 日曜日の投稿です。




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     【 大正13年 佐世保の西、相浦沖合で衝突沈没した第43潜水艦 】


 第43潜水艦 機関科 第3分隊の機関長 市村 次一 海軍機関中尉の統帥下

に、 2個班があって、 8時間交替で勤務していたわけですが、昨日は 鬼塚

實治 海軍機関兵曹長を紹介したのですが、 今日は、もう一つの班長の 穴見

儀三郎 海軍機関兵曹長を紹介します。




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 【 穴見 儀三郎 海軍機関特務少尉 殉職後 1階級昇進  大分県出身 】



  穴見さんと言う人は、小川 昊 機関大尉の遺書や、 海上で救援活動を

行っていた人達の話によく名前が登場する人です。

どうしてかと言うと、電動機室の上の救難浮標の電話で最後まで水中から海上

話をしていた人で、そういう事情で、「 穴見 兵曹長から○○とーー云々。」

と言い伝えられる話が多かったのです。


 
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         【 第43潜水艦の後部の救難電話浮標  大正13年撮影】



 穴見 儀三郎 海軍機関兵曹長は、明治22年12月10日 大分県南海部郡鶴岡

村生まれで、大正13年の事故当時、 1889年が明治22年なので、逆算すると

35才でした。

 先任順序は、昨日紹介した 鬼塚 實治 海軍機関兵曹長が年上の為、機関科

では序列3位でありました。


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         【 穴見 儀三郎 海軍機関兵曹長 遺書 大正13年撮影 】



 穴見 さんと言う人は、 後部の電動機室で御遺体が発見され、ポケットに、

 手帳が入っていて、 ここに 事細かく 記録が書かれていたのです。


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 どうも、 市村 機関長の指示で、 救難電話浮標の電話番と、記録係を兼ねてい

 たようです。


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       暗闇の電動機室で 最後まで海上との電話通話を担当し、亡くなった

      ようですが、発見された遺書の中では、1番長文であったようです。




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      それでは、次回から、暗闇の中で、何も見えない中、彼が書き残した

      遺書を 読みやすいように、今風の文面に直して、 紹介して行きたいと

      思います。


      【 明日に続く。】