第1638回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1637話 第43潜水艦 前田 光一郎 海軍三等機関兵曹の事。

                          2016年9月21日水曜日の投稿です。




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 前日に紹介した 兒島 丈七さんの遺書を解読したことで、 第43潜水艦の

発令所に 右舷横から 軽巡洋艦 龍田の艦首の喫水線の下が衝突し、発令所

があっという間に海水で桑島 新 海軍大尉等が13名全滅し、その衝撃で、発令所

と機械室をつなぐ隔壁の扉の金具の部分がゆがみが生じ、 ここから少しずつ浸水

し、防水することが出来ず、 機関長の指示で、後部の電動機室に避難したものの、

当時の潜水艦の排水パイプは安全弁がついていなかったので、これらに海水が

逆流し、 避難していた電動機室に浸水し、 乗組員がパイプをたたきつぶして、

防水作業にあたったと言う事がわかってきました。



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  【 大正13年3月19日 佐世保市相浦沖で衝突し、沈没した第43潜水艦】



今日の昔話は、 第43潜水艦 第3分隊 前田 光一郎 海軍三等機関兵曹の

遺書を解読するお話です。



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   【 第43潜水艦 第3分隊 前田 光一郎 海軍三等機関兵曹 佐賀県出身】



 この前田 光一郎 海軍三等機関兵曹の顔写真は、原画は、戦前よく行われてい

たのですが、鉛筆の粉を使用して、 写真の様に描く肖像画です。

当時、 写真と同様に、職人さんが町中にいて、 上陸した時に描いてもらう事が

多かったのです。

戦後は、 写真が低価格になったので、消えていった、そういう肖像画です。

肖像画は、 前田 光一郎さんが、海軍に入営した 水兵時代の肖像画です。

おそらく、描いてもらって、 佐賀県の親の家に送ったのではと思います。

 資料によると、 前田 光一郎 海軍三等機関兵曹は、 佐賀県の人で、

佐賀県 藤津郡 塩田町と言う場所の出身で、 現在で言う、 嬉野市【うれしのし】

から、太良町にかけてが当時 藤津郡【 ふじつぐん】と呼ばれていたそうです。

ここに 塩田町という町が当時あって、現在は嬉野市の一部になっています。

わかりやすく言うと、 嬉野の市役所の周辺が、当時塩田町と言われていたのです。



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  【 大正13年撮影 前田 光一郎 海軍三等機関兵曹の遺書 】


 前田 光一郎 海軍三等機関兵曹の御遺体は、電動機室から発見され、

その御遺体から、海水でぐじゃぐじゃになった 遺書が発見されたのです。

 すこし 解読して、わかりやすく紹介すると 次の様なおおよその内容と

なっています。



                  前田 三等機関兵曹の遺書


 艦と生命を共にするは本懐なり何も天命なり

 ちょうどへん事は午前九時なり 午前十時にして何をなして後なすことなし

 水中信号はあれ共其応答する兵科のもの1人も無し 救難浮標には電源

 なくして 当方にてノック信号をなせしも何等の応答を認めず 水中他艦船

 の上に来りし信号をせるも応答をなすべきべなくて ノック信号をなす 井上

 さんに前に述べたる如きことあとはたのむよ

 伯父に十一圓五十銭他 俸給はあとできみやってくれ給い 君 頼む前田 





と、 おおよそこのような内容で、 この遺書には貴重な事が書き記されていて

「水中信号があれど、応答する兵科のもの無し。」と言う部分は、推測ですが

他の潜水艦から、音響信号が聞こえて来たのですが、 発令所の担当部署が

全滅してしまい、 機関科では意味がわからず、返信が出来なかったようです。

この当時、水中で、潜水艦と潜水艦が、水中信号をかわす音響信号機が配備

されていたのかもしれません。


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                    【 大正13年撮影 救難浮標 】

 
 穴見 海軍機関兵曹長の遺書にも書いてありましたが、 潜水艦の後部電動機

室から海上に上げた 救難浮標は、 有線でありましたが まったく使い物にならず

ノック信号を送ったが まったく応答がなかったと書いてあります。

これらの事は、後に新聞に発表された、 水中の潜水艦乗組員と海上の救助隊が

この救難浮標の電話で会話したなどというお話が 作り話であったと言う事を証明

する遺書の文言で、 穴見 海軍機関兵曹長の遺書を、 追認補強する文面です。

前田 光一郎さんと言う人は、 両親がすでに他界していたのか、死んだ後の給金

の十一円五十銭を伯父に渡してくれと書いている文章を読むと、大変気の毒で

なりません。


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 こうして、92年間 だれも読もうとしなかった、 前田光一郎さんの命をかけた

最後の暗闇の中の絶筆を 解読すると、 その後の当時の新聞記事が、作り話

の美談であったことが徐々にわかってきました。



【 明日に続く。】