第1644回 昭和の伝道師 【 戦中、戦後のパイロットの物語 】


第1643話 第43潜水艦の乗組員の証言の事。 

                        2016年9月28日水曜日の投稿です。




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                     【 連合艦隊 旗艦 長門 】


  今日の昔話は、大正13年3月19日に 長崎県佐世保市の相浦の沖合で

発生した、 軽巡洋艦 龍田と、第43潜水艦との衝突事故を検証したいと思います。

乗組員の遺書から、 現在伝わっている 当時の新聞記者が書いた言い伝えとは

随分違うことがわかってきました。


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  大正12年の年末、 関東大震災の救援活動などで活躍した、戦艦 長門

艦長であった 高橋 節雄 海軍大佐は、 海軍少将に進級し、 佐世保防備隊

司令に着任し、その3ヶ月後、翌年の大正13年の3月初旬、 佐世保防備隊内で

演習を計画し、 当時の佐世保鎮守府司令長官 伏見宮 博恭王 様の裁可を

経て、 統帥下の 第22潜水隊の3隻の潜水艦が、待ち伏せして、陸軍の兵員

輸送船を強襲攻撃し、 兵員輸送船の役は、 当時の特務艦 見島 が行う事になり、 

自らは見島に座乗し、演習を指揮することとなって行ったようです。



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                         【 特務艦 見島 】


 そして、 特務艦 見島 を護衛すると言う事で、 佐世保防備隊の艦艇の内、

 軽巡 龍田 駆逐艦 4隻が後に続いたようです。



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   大正13年3月19日  速力の遅い 第22潜水隊の 第41、第42、第43

  潜水艦 3隻が一足先に 佐世保軍港を出港し、 佐世保市の北西 相浦沖

  に展開し、 水中に潜んで攻撃する役を行う事になっていったのです。



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  日の出と共に、佐世保防備隊の 6隻の艦艇が高橋 節雄 海軍少将に

 率いられ 佐世保軍港を出港し、相浦の沖に向かったのです。


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  高橋閣下のお話では、自らが乗り組む 特務艦 見島が 標的となって、

これを 3隻の潜水艦が攻撃してくると言う想定で、 2隻の駆逐艦を前衛に、

もう2隻の駆逐艦を 左右に護衛に付け、 軽巡 龍田が その周囲を掃海すると

こういう 護衛計画であったようです。



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  その位置を、 兵棋を使用して 表していくと、上の画像のようになります。



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高橋閣下の目撃談によると、 特務艦の見島の右舷 約6千メートル程度に、

速力15ノットで 軽巡 龍田が逆方向から航行中、座礁したように少し喫水線が

上がり、その場に停船してしまったのが見えたそうです。


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 ここからが 乗組員の証言ですが、 事故発生の時間というのは証言がまちまちで

 9時という人もいますが、 総合すると 朝の8時45分頃、 艦長 心得の桑島 新

 海軍大尉は、 周囲の海面の安全を確認せずに、潜望鏡深度に浮上することを

 発令し、潜望鏡深度の水深5メートルまで 第43潜水艦を浮上させたようです。



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         【 第43潜水艦 艦長心得 桑島 新 海軍大尉  栃木県出身】


 この段階で、水深が5メートルですから、 海上からは 第43潜水艦は見えない

 訳です。

 そして、「潜望鏡上げ。」と 発令し、 目標の艦船 見島の右舷 90度方向

 距離6千メートルの海上に、潜望鏡を上げたようです。



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   実は、これが悲劇の始まりで、 安易に潜望鏡を上げた場所が、実は

軽巡洋艦 龍田の進行方向の約100メートル程度前であったのです。




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 当時の位置的関係は、 上の画像の様な感じであったと思います。

 軽巡 龍田の見張り員が気がついたのが、 約50メートル前、「 警報、前方、

 潜望鏡。」と、叫んだのですが遅かったようです。


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                【 第43潜水艦の側面から衝突した 龍田 】 



 約五千トンの軽巡 龍田が 第43潜水艦の右舷 真横から 発令所、司令塔

 に 龍田の 喫水線の 水面の下が乗り上げるように、速力15ノットで衝突した

 ようです。



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  第43潜水艦の発令所では、潜望鏡を上げて のぞき込んでいると、右真横から

大音響と共に、強い衝撃と、 艦が左に50度程度傾いて、横倒しとなり、右の床の

表面が、 天井近くまで上昇し、 左の床が、約50度 下に落ちた形となり、 内部の

乗員は、 左の床の表面にたたきつけられたようです。

そして、 どっと、右の潜水艦の内壁の側面から海水が流入し、発令所に勤務して

いた13人は水死してしまったようです。



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       【大正13年撮影 桑島 新 海軍大尉の時計 8時54分で停止 】


   発令所の13人が全滅したのは、 8時54分前後であったと 推測されます。

  このような事故が発生し、 第43潜水艦は、 相浦の海底に横倒しとなって

  沈んでいったのです。

  原因は、 水中にあって、 浮上するであろう場所の周囲をよく確認せずに、

  安全確認を行わず、 潜望鏡を上げた事が原因でしたが、 桑島 新 海軍大尉

  の弁護をするわけではないですが、 当時の潜水艦には、音響測定器も装備

  されておらず、 当時の安全確認の基本は潜望鏡深度から潜望鏡で周囲を

  確認して、 それから浮上するというのが 決まりであったのです。

  そして、潜水艦は事故防止の為、 水上に見張りの艦船を待機させて、打ち合

  わせの上、 潜行したり、浮上したりすることが、海軍の内部規定で定められて

  いたのです。

  

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                     【 衝突 沈没した 第43潜水艦 】



 どういうことかというと、 岩国沖の明治43年に発生した、第6潜水艇沈没事故

の戦訓から、 沈没した潜水艦の位置がわからないと、救助が難航するという事で

事故発生に備え、 海上に見張りの艦艇を待機させてから、潜水訓練をすることに

なっていたのですが、 それをやる任務の特務艦は、 見島で、 特務艦 見島

は6千メートル程度 進行方向 前方に位置し、 第43潜水艦の潜水位置どころか

他の2隻の潜水艦の潜水位置なども当時把握していなかったのです。


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   このような顛末で、 海上佐世保防備隊の艦艇は、 第43潜水艦が、

   衝突沈没した海域に、救助のため集結する事になっていったのです。


    【 明日に続く。】