第1645回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1644話 第43潜水艦の衝突、沈没後を検証する事。
2016年9月29日 木曜日の投稿です。
今日の昔話は、 前日紹介した 大正13年の3月19日の朝に、軽巡 龍田
沈没したその後、第43潜水艦がどうなっていったのかというお話しです。
昨日紹介したのですが、当時の日本海軍の内部規定の 潜水艦が潜行
する場合は、海上で監視の艦船を同伴させるということが無視され、当日、
演習中とはいえ、 第41、第42、第43の3隻の潜水艦が、どこで潜行して
いるのかと言う事を 海上の艦艇が把握していなかったようです。
「そんなことをしていたら、演習にならないではないか。」 と 申立がありそう
ですが当時、 1年か、半年に1度、 大きな潜水事故が続いていた当時、 配慮
が足らなかったと言う意見もあります。
昨日の続きですが、 潜望鏡深度に浮上して、 潜望鏡を上げて、 数秒
覗いていたのは、 桑島 新 海軍大尉で、 おそらく 0時方向、前を
1番に見ていたと思います。
水平線の 特務艦 見島を 見ていたのでしょうか、 数秒で、右舷90度
方向から、 軽巡洋艦 龍田の 喫水線の下が 真横から T字型に衝突
してきたようです。
「 どっかーーーん。」 と音がしたかと思うと、 その衝撃で、第43潜水艦は
左弦に50度程度方向き、 右の床が、天井近くまで上がり、 左の床が、
50度 沈み込み、床は滑り台のようになり 乗員はその衝撃で 左弦に
投げ出され、 負傷者も出たようです。
そして、 その時間というのは、1924年 大正13年の3月19日の朝の8時
45分過ぎ程度の出来事であったようです。
この衝撃と同時に、艦内は電源が喪失して 暗闇となり、 なにがなにやら
わからない間に、 右舷天井付近から 海水がどっと入り、 指揮官 桑島 新
海軍大尉ら13名の 発令所勤務の面々が全滅したようです。
【 大正13年撮影 桑島 新 海軍大尉の時計 8時54分 】
第43潜水艦の発令所が浸水で全滅した時間は 朝の8時54分であったよう
です。
あっという間に、海底に沈んでしまった 第43潜水艦の艦内は暗闇となり、
当時、戦闘配置についていたので、各部屋の隔壁ドアは閉めていたようですが、
乗組員の遺書によると、発令所と機械室の間の隔壁のドアの金具が壊れ、ここから
海水が噴き出し、 止水出来ず、 海水がどんどん機械室に流れ込み、当時、この
部屋で指揮していた、機関長の市村 機関中尉の判断で、後部の電動機室に退去
することが決定され、乗員は、後部の電動機室に避難したようです。
【 第43潜水艦 機関長 市村 次一 海軍機関中尉 】
乗組員の遺書によると、 この時の艦内の明かりは、 懐中電灯 2個だけで
あったようです。
電動機室に避難したものの、 当時のパイプは安全弁が付いておらず、海水が
逆流してきたのか、 排水パイプから 海水が噴き出し、 暗闇の中、乗組員は
パイプの断面を叩き潰して、止水作業に追われたようです。
【 演習統監部員 小川 昊 海軍機関大尉 大阪府出身 】
一段落すると、 当時、 演習を見分するために乗り合わせていた 小川 昊 機関
大尉と、 市村 機関長との合議で、 駆逐艦かなにかの艦艇と衝突し、沈没したと
想像し、 発令所や、前部と連絡を取ろうとしたのですが、まったく返事が無く、独断
で 救難浮標を海上に上げることを決断し、 実行したようです。
彼等が避難していた 電動機室の天井には、当時の最新鋭装備の救難
電話浮標というのがあって、 この有線の電話浮標を海上に上げて救助を
待つことにしたようです。
【 大正13年撮影 第43潜水艦 電話浮標 】
事故から1時間後の午前10時頃、 暗闇の艦内で、 紙が集められ、小川
機関大尉の訓示の後、 各員に 紙片が配給され、 鉛筆で遺書をしたためる
事になったようです。
こう言う事故の場合、 艦内の電源が無くなり、暗闇となって行ったことが
遺書により 推察できますが、 懐中電灯が 18人に2つしかなかった、と言うのは
機械室用と電動機室用とに 各一個しか備え付けがなかったようです。
そして、防毒面なども、全員分完備されてなかったようです。
床が、右が天井まで上がり、 左が 50度下がり、 滑り台のような床で
立っていることが難しくなり、 当時の遺書には、 床付近から じわじわと
浸水があり、 足元に海水がたまっていき、 暗闇の中、精神的圧迫を続けて
いったようです。
【 明日に続く。】