第1646回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1645話 第43潜水艦 救難浮標の交信の事。
2016年9月30日金曜日の投稿です。
【 大正13年撮影 第22潜水隊 第43潜水艦】
今日の昔話は、1924年 大正13年の3月19日に 佐世保市 相浦沖で
衝突して沈没した 第43潜水艦 艦長 心得 桑島 新 海軍大尉指揮する
潜水艦の沈没のその後を、乗組員の遺書を解読して、検証したお話しの前話
の続きです。
1643話、 1644話で紹介したように、 第43潜水艦は、海底50メートル
に斜めになって、着底したと伝えられています。
当時の 市村 機関長 や、 小川 機関大尉らは、合議の上、事故から
30分程度で、 詳しい事情はわからないまま、 第43潜水艦の 発令所など
から連絡が付かず、 艦の現状から、 駆逐艦かなにかと衝突沈没したと悟り、
電動機室の上部にある、 新装備の 海軍救難浮標を独断で海上に上げたよう
です。
【 大正13年撮影 第43潜水艦 救難浮標 全景 】
当時の資料によると、 第43潜水艦のクラスには、前と後に、2つ装備され
ていて、 上の写真は、 後部の電動機室の上の甲板に配備されていた浮標の
ようです。
【 大正13年作成 第43潜水艦の横断面図 】
この救難浮標は、海中から有線で 海面に浮いて、 沈没位置を知らせると
ともに、 内部に電話が付いていて、 潜水艦の中と 海上とで 電話交信が出
来るという 新式の救難装置であったのです。
【 大正13年撮影 第43潜水艦 救難浮標 真鍮銘板 】
佐世保防備隊 司令 高橋 節雄 海軍少将のお話しでは、 すぐ浮標が
浮いてきたので、 潜水艦の内部に生存者がいることがわかり、 沈没位置が
すぐわかったとのお話しであったのですが、 ここからが、 内部の殉職者の遺書
と、 その後に新聞記事となった事故の顛末と違う部分です。
当時の新聞記事には、この救難浮標の電話で、初めは、小川機関大尉と、その
後は、穴見機関曹長と 電話連絡し、 内部の様子や、どんどん酸欠で斃れて
死んでいく乗組員のお話が紹介され、世間に衝撃をあたえ、同情を誘そい、
され、 高橋 節雄 海軍少将が 東京の宮城に参内して 顛末を奏上などしたと
伝わっています。
ところが、電話で通話していたという、小川機関大尉の遺書には何も語られて
おらず、 後半、電話を使用して、 苦しい窮状を訴えていたという 穴見 機関
兵曹長の遺書には、 92年経った現在 遺書を解読してみると、 事故後、7時間
経過しても、 救難浮標の電話はつながらず、 役に立たなかった。
「 席上の空論の品なり、 改善を求む。」 とあります。
又、他の機関科の人の遺書にも、それを補強するような文字が記載されています。
外と中の交信は、 水夫のが潜水艦の外壁を叩く、モールスであったことが
わかってきました。
また、 沈没海域が水深50メートルであったというお話しも 少し疑問点が
多いのです。
というのが、 素潜りで人間が潜れる深度は、35メートル程度が限界とされていて
その当時、 もしかすると、超人的な素潜りの名人がいて、潜っていって
潜水艦の外側を ハンマーで叩いてモールスを送ったのかもしれません。
但し、 ほんの数秒の滞在で、 すぐ上にあがらないと自らが水死して
しまうので 長居は出来なかったようです。
今日までのお話しは、 発令所付近で 1番に全滅した 13名と、その後、
生存して窒息して亡くなった、機関科の18名の名前や遺書を紹介して行ったの
ですが、明日からは、前部の人たちはどうなっていったのか、 こう言う視点で
調査した事を紹介したいと思います。
【明日に続く。】