第1668回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1667話 第43潜水艦 万事休すの事。 2016年10月23日日曜日の投稿です。
【 大正13年撮影 忠誠 東郷平八郎 元帥 書 】
の沖合で、軽巡洋艦 龍田に衝突されて沈没した、第43潜水艦の乗組員の
最後の交信記録のお話しです。
前話からの続きで。
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【 小川 昊 海軍機関大尉 大阪府出身 】
3月19日 20時10分頃
小川 機関大尉 「 一身上に関しては何も言うことは無い、すでに決心して
いるから皆様願わくは 国家のために最善の努力を頼む。」
3月19日 20時38分頃
穴見 機関兵曹長 「 天命を待つーーーーーーーー。」
と、独り言を話すのが聞こえる。
3月19日 20時45分頃
穴見 機関兵曹長 「 早く、早くーーーーー。」
と、 独り言を話すのが聞こえる。
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この 「 早く、早く。」 という、独り言の声が最後で、 まったく 問いかけに
応答がなくなったそうです。
【 殉職した、発令所の桑島 新 海軍大尉の腕時計 8時54分】
多くの遺書によって、事故発生時刻は前後しているのですが、おおよそ
総合すると、8時45分頃が 衝突事故の発生時刻と考えられ、 最後の
電話交信の文章が本当であったとすると、 事故発生後、 穴見 兵曹長ら
は、12時間程度で、 酸欠死、及び、水死したと思われます。
【 大正13年撮影 第43潜水艦 】
3月19日 21時35分 頃、 「水中に潜水夫が潜って、前部と後部の
潜水艦の外壁を叩いたが、全く応答がなかった。」とあります。
「 流潮急にして、釣り上げ作業間に合わず、上下わずかに百二十尺
電話までかわしながら ついに之を救助する事が出来ず、實に千秋の
遺恨である。」 とあります。
この当時、 この文章が本当であったとしたら、 120尺というと、おおよそ
メートルの単位に直すと、 39,6メートル程度となり、 これが現地の水深で
あったのかもしれません。
今、普通の高校生が50メートルを走ると、おおよそ 7秒から8秒です。
40メートルなら、 死ぬのなら、 水中に打って出て、 息を止めて、海上に
出れば望みがあると考えるのは素人ですが、 水圧というのがあって、5メートル
沈むと、車のドアが開かなくなるそうで、 それの8倍の水圧がかかっているわけで
ハッチが開閉が出来なかったのでしょう。
水圧という物は、恐ろしい物です。
「自然を知る。」 と言う事は、 大切なようです。
次回は、 その後、第43潜水艦事故の救助活動はどうなっていったのか、
が出来ない、 重たい潜水艦を現地で放棄するか、 引き揚げるのか、 引き揚
げるのはどうしたら良いのか、 多くの人が智恵を搾る事になっていく訳ですが
次回からそのお話しを紹介して行きたいと思います。
【 明日に続く。】