第1695回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1694話 日本海軍の布陣の事。2016年11月19日土曜日の投稿です。







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   日本海軍では当時、陸軍の元締め的存在の 長州の山縣 有朋公より、

かましい程、 圧力を受けていたのです。
 
それは何かというと、 あれほど戦上手と評判の豊臣秀吉が、文禄、慶長の役

で朝鮮征討に失敗した原因というのは、対馬海峡で、朝鮮の水軍が制海権

脅かし、日本からの食糧、武器弾薬が 九州から朝鮮半島に届かなくなり、

このことが、大きな敗因となったのです。


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                    【 山縣 有朋 陸軍大将 】


   そのような訳で、 九州から 朝鮮半島にいたる 対馬海峡の陸軍の輸送船

  の安全確保に大変な神経を尖らせていたのです。

  そして、 当時、 山縣 有朋公が 陸軍から 海軍に送り込んでいた 手駒が

  海軍軍令部長 樺山 資紀 【 すけのり】 海軍大将であったのです。



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               【 熊本鎮台 当時の 樺山 資紀 参謀  】


    樺山さんと言う人は、 陸軍の軍人で、西南戦争の時、熊本城にあって、

   谷 干城さんと、籠城して、 薩摩の西郷軍と戦火を交えた人でありました。

   陸軍少将の時に、 陸軍から海軍に入ってきた人であったのです。

   この人が当時、 海軍軍令部長であったのです。

   その下に、連合艦隊が構成されていたのですが、次の様な組織になって

   いたのです。



    常備艦隊 司令長官  伊藤 祐享 【すけゆき】


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           【 連合艦隊 司令長官 伊藤 祐享 海軍中将 】



  西海艦隊  司令長官  相浦 紀道 【 のりみち】




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           【 西海艦隊 司令長官 相浦 紀道 海軍少将 】



     当時、 日本海軍は、常備艦隊と西海艦隊とに別れていたのです。


    そして、常備艦隊が、連合艦隊に編成替えされ、7個の艦隊が当時

    あったわけです。


   連合艦隊 本隊    松島、千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑 【6隻】

   第1遊撃隊       吉野、高千穂、浪速、秋津洲  【4隻】

   第2遊撃隊       武蔵、金剛、高雄、大和、葛城、天龍 【6隻】

   第3遊撃隊       赤城、大島、愛宕、筑紫、摩耶、鳥海 【6隻】

   第1水雷戦隊     【5隻】

   第2水雷戦隊     【6隻】

   第3水雷戦隊     【4隻】 


 そして、 当時の連合艦隊の 旗艦は、 松島 であったのです。


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                   【 連合艦隊 旗艦  戦艦 松島 】



    ところで、陸軍からの情報で、清国海軍の居所と、おおよその兵力を

  知る事になった 日本海軍の連合艦隊司令部では、 打って出るか、待つか

  決断を迫られる事になっていったのですが、 当時の連合艦隊 司令長官の

  伊藤 祐享 海軍中将は、ずいぶん慎重な考えで、陸軍の情報が間違いで、

  あるいは、 囮の艦隊で、 別個の艦隊が 後から攻撃して来た場合、又は、

  日本の本土を強襲してきた場合、 いろんな角度から検討し、どうするか

  決めあぐねていたのです。

  そこに、 「 強襲すべし。」 と 圧力をかけてきたのが、 当時の軍令部長

  樺山 資紀 さんであったわけです。

  そして、 「陸軍の情報を信じ、 相手が攻撃してくる前に、切り込むべし。」と

  言い張ったようです。

  そして、 自分が 現地へ攻撃をかけ、 軍令部長が先陣を務めると

  言い出したそうです。  

  伊藤司令長官も、 陸軍からの圧力で、 すいぶんやりにくかったと推察

  するのですが、 それが当時の司令部内のやりとりのようです。


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  そのような経緯で、連合艦隊司令部は、本来 対馬海峡を防衛するという

作戦の目的から、 第2遊撃隊以下、 多くの艦艇を 対馬海峡防衛に残して

本隊、 第1遊撃隊 の2個 艦隊のみで 出陣することになっていったのです。

そして、 強行に 出陣を主張していた、樺山軍令部長も 西京丸という輸送艦

乗り組んで、 一緒に同行することになって行ったのです。

つまり、 山縣有朋公のお目付役が同行することになっていったのです。



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        【 苦渋の決断をした 連合艦隊司令長官 伊藤 祐享 海軍中将】



 ここで、日本海海戦のように、 全艦隊を率いて出陣していたらと思うわけですが

 この強襲攻撃に失敗しても、 その後の事を考えて、 半分の艦隊は温存して

 おいたようです。

 日本海軍の目的は、 対馬海峡の 陸軍の輸送船を守る事が1番であったの

 です。



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 日本海軍の強襲攻撃艦隊は、3個に別れ、 後陣に、 樺山 海軍軍令部長

 の 後方部隊、  中陣 に 伊藤 連合艦隊司令長官の 本隊、 先陣に

 第1遊撃隊 司令 坪井 航三 海軍少将の艦隊とに別れていたのです。


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    そして、 清国艦隊が 水平線上に発見したのは、 坪井 海軍少将の

    第一遊撃隊であったのです。

    いよいよ、明治27年 1894年 9月17日 アジアで初めての近代軍艦

    による 海戦が始まろうとしていたのです。


    【 明日に続く。】