第1696回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1695話 甲板砂撒きの事。 2016年11月20日日曜日の投稿です。





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    陸軍の諜報組織の情報に元ずいて、連合艦隊の半分を対馬海峡防衛

 に残して、 本隊、第1遊撃隊のみで出陣した、伊藤 連合艦隊司令長官らは、

 後から、海軍軍令部長が同行するという 前代未聞の出来事の中、清国の精鋭

 艦隊に切り込みをかける事になっていったのです。

 その艦隊は、3個群に別れ、 先陣を 第1遊撃隊 4隻 坪井 海軍少将の

 艦隊が進み、 少し離れて、 中陣には、連合艦隊の本隊 6隻 伊藤中将の

 艦隊が進み、 後陣に 樺山軍令部長の座乗する 西京丸と護衛の赤城が

 黄海を北上し、進んでいたのです。

 1894年 明治27年の9月17日 水平線上に清国艦隊の 黒煙が発見され、

  

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                     「 水平線、 敵艦 見ユッ。」 

   と、 報告が上がると、 第1遊撃隊の 坪井 海軍少将は、艦隊の陣形を

  縦従陣にとって、 戦闘配置をとったのです。

  戦後、この戦闘を検証してみると、多くの戦訓が残されていたのですが、まず

  特筆すべきは、その陣形でありました。


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                  【 第1艦隊の縦従陣航行の様子 】


   当時の日本海軍の縦従陣の陣形というのは、 先頭に、艦隊の旗艦が航行し、

 その後を、指揮権の順番、つまり艦長の先任順に艦が数珠のように連なっていく

 そういう陣形であったのです。



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     坪井 海軍少将の第1遊撃隊 4隻は、横一列に並ぶ 清国海軍の陣形に

    縦一列で突撃を敢行していったのです。

    その 突撃の順番は、 旗艦 吉野  高千穂  秋津洲 浪速の

    順番で、 日露戦争連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥は、当時、

    末尾の 浪速の艦長であったのです。


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              【 第1遊撃隊 司令  坪井 航三 海軍少将 】


  当時の日本海軍の優れた練度というのはどういう部分であったのかというと、

  連絡、通信手段、 乗員の作業練度が非常に高かったのです。


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      砲を操作する乗員が、相手の攻撃で負傷して倒れても、 すぐ替わりの

      兵が交替し、 砲撃が続けられるような配置が考えられていたのです。

      これを何度も、何度も繰り返し、だれでも、同じ作業が可能になってい

      たのです。 



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   砲を発射すると、 すごい煙が出て、視界が悪くなり、 すごい爆音がして、

   ラッパ信号の音なども聞こえなくなるのです。

  そこで、 艦内や、 艦隊の各艦にどのように迅速に命令を伝達するのか

  こう言う事が 非常に大切な事でした。



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    日本海軍では、そのすべての乗員が、統一された手旗信号を熟知していて

  命令の伝達が迅速に行われ、 報告連絡が途切れることは無かったのです。

  この連絡手段というのは、この海戦の冒頭から敵艦隊との大きな違いを見せて

  いくのです。



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   この縦従陣という陣形は欠点があって、それはどういうことかというと

  先頭の艦艇、 この海戦の場合、第一遊撃隊の旗艦 吉野 が先頭です

  ので、 吉野が 集中攻撃を受けるわけです。

  それ故、日本海軍では事前の申し合わせで、 旗艦の吉野が撃破され

  戦列を離れた場合、 次席指揮官の座乗する2番艦の 高千穂の艦長が

  そして、 高千穂が撃破されたら、3番艦の秋津洲 がと、指揮権の順番が

  定められていたわけです。

  
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                        【  甲板 砂撒き 】


      坪井海軍少将は、甲板砂撒きを発令し、 甲板に土のう袋から砂が

      撒かれていったのです。

      戦後、 甲板砂撒きのお話しなど紹介した文献は無いので知らない

      人がほとんどだと思いますが、 これらの砂撒きはどういう事かというと、

      人間が死んで血が流れるとズルズル滑るのです。

      それを防止する為に、甲板に砂を事前に撒いておくわけです。

      そして、 日本海軍の第1遊撃隊の4隻は 清国海軍が横一列で

      待ち受ける海域に突撃を敢行していったのです。



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    ところで、清国の艦隊は12隻が一斉に砲門を開き、 発砲してきたのですが

    驚いたことに、相手側の 司令官の座乗する 旗艦の回転砲塔がなぜか

    大爆発を起こし、 司令官達が吹き飛ばされ、 そして、 司令官が戦死した

    り、指揮が執れなくなった場合の 先任順を決めてなかったのか、 大きく

    混乱していったのです。

    この事件、謎が多いのですが、 訓練不足からか、主砲の砲塔の中で

    爆発事故が大切な時に発生し、 砲塔の後の艦橋で、艦隊の指揮を取って

    いた 艦隊司令部の幕僚等が、爆発に巻き込まれ、多くが負傷し、動けなく

    なったようです。



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    清国艦隊 旗艦が 砲塔で爆発事故を起こし、 混乱する中、 坪井 海軍

少将の第1遊撃隊は、距離3千メートル迄接近すると、 左に90度転舵して、

横一列となり、 清国艦隊に 発砲を開始したのです。



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     1894年 明治27年9月17日 正午過ぎ、 快晴の天候の中、

   アジアで初めて、 双方が近代輸入艦艇での海戦が開始されたのです。

   その距離は 3千メートルという距離で、 日本側は一斉射撃を開始したの

   です。

   清国側は、旗艦が爆発し、 艦隊の命令が発せられなくなり、各艦の艦長が

   独自の判断で バラバラに行動していくという、 こういう戦闘になって行った

   のです。


    【 明日に続く。】