第1698回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1697話 清国艦隊の衝角攻撃の事。 2016年11月22日火曜日の投稿です。
1894年 明治27年9月17日の14時頃、 連合艦隊司令長官 伊藤海軍
中将の座乗する、 巡洋艦 松島に、 305ミリ砲弾と思われる 清国艦隊の
発射した 砲弾が着弾し、 大爆発を起こし、 30人近い戦死者が発生した
のです。
【 被弾した、連合艦隊 旗艦 松島 】
連合艦隊の本隊 6隻の旗艦 松島が爆発を起こすと、 清国艦隊は
艦隊司令部の命令などを受けずに、独自に日本艦隊に向かって、艦首を
前にして、全速力で突撃してきたのです。
日本艦隊は、一斉に、回頭して、 清国艦隊との距離を開けながら射撃を
繰り返して行ったのです。
どうして、連合艦隊司令長官の伊藤海軍中将が、清国艦隊との距離を開ける
ように、艦隊を南に退避させていったかというと、 当時の独特の戦法を知って
の上での判断であったのです。
清国艦隊が、艦首を前にして、 前進してきたのは、 日本艦隊に体当たり攻撃
を仕掛ける戦術であったのです。
当時の ドイツ製の軍艦は、艦首に 衝角 【 しょうかく】と言う、突起が
作られていて、 この突起で、相手の艦艇に追突して、側面に大穴を開けて
沈没させる設計となっていたのです。
日本の連合艦隊は、 側面をさらして、砲撃しているので、 ここに 清国の
艦艇が、艦首から突撃して、体当たりされると、 こちらに被害がでるので
艦隊を Uターンさせ、 距離を取りつつ、 今度は、艦の反対側から
再度 射撃して行く事を繰り返して行ったのです。
すると、今度は、 比叡に 清国艦隊の発射した砲弾が命中し、大火災
が発生し、 比叡が大破炎上して、 戦列を離れていったのです。
大狐山沖合の アジアで初めて行われた、アジア人どうしの
輸入西洋軍艦による海戦は、 開始から2時間を経過し、双方とも
大なり小なり砲弾が命中し、被害が急増していったのです。
そして、 清国艦隊の側面の予備兵力であった4隻が、側面から
襲いかかってきたのです。
後方で、 樺山海軍軍令部長が座乗し、後陣を務めていた、西京丸と
護衛の赤城に襲いかかってきたのです。
この海戦、 アジア人が 魚雷を実戦で使用した歴史に残る海戦で
あったのです。
【 樺山 資紀 海軍軍令部長 】
後方から、海戦を見物しようと考えていた樺山 海軍軍令部長らは
側面から 清国艦隊の4隻に集中攻撃を受けることになっていった
のです。
大狐山沖合は、 北も南も 乱戦になって行ったのです。
【 明日に続く。】