第1702回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1701話 第1遊撃隊の追撃の事。2016年11月26日土曜日の投稿です。
1894年 明治27年の9月17日の夕方、 大狐山沖合の、アジアで初めての
輸入洋式軍艦同志の艦隊決戦は、 清国艦隊が逃走を開始し、日本側が勝利
したのですが、 日本側も被害が甚大であったのです。
【 樺山海軍軍令部長一行が乗り組んでいた 西京丸】
連合艦隊の本隊の旗艦 松島は大破、 比叡は大破炎上、 赤城、大破
炎上、 西京丸も大破し、 連合艦隊司令長官の伊藤中将は、松島では、指揮
が不可能と判断し、 連合艦隊 本隊に集結を求める 信号旗を揚げることになっ
ていったのです。
【 第1遊撃隊 司令 坪井 航三 海軍少将 】
ちょうどその頃、 坪井 海軍少将は、 敵艦隊 掃討の絶好の機会と判断し、
配下の艦艇で、清国艦隊に追撃を開始したのです。
坪井少将が 追撃を判断したのは、 清国艦隊に 「伏兵はおらず。」と、見て
取ったからでした。
清国艦隊の 経遠 に追いついて、 吉野で 残り少ない弾薬を節約しながら
砲撃を開始したのです。
清国艦隊の 経遠 は、夕方 日没頃、第一遊撃隊の砲火に、沈没し、
その前を航行していた 広丙 は、座礁して動けなくなり、 残りの艦船は
旅順に逃げ帰ったのです。
坪井 海軍少将は、 この旅順の手前で、艦隊の追撃を止めて、また
大狐山沖合にとって返したのです。
どおして、坪井少将が追撃を断念したかというと、 旅順軍港は周囲を
山々に囲まれていて、この上に砲台があったのです。
この砲台の射程距離は、日本海軍の主砲より、射程距離が長く、近づくと
逆に 返り討ちにあう可能性があったのです。
【 連合艦隊 司令長官 伊藤 祐享 海軍中将 】
連合艦隊 司令長官 伊藤 祐享 海軍中将は、作戦の目的は遂げた
と考えて、 各艦の砲撃で破損が出た部分の修理と、戦死者、負傷者を
すが、 これを聞いた、 樺山 海軍軍令部長は、「 うち漏らした清国海軍
の艦艇を根絶やしにするべし。」 と叫んで、 再度 攻撃をかけるように
命令をだしたのです。
【 海軍 軍令部長 樺山 資紀 海軍大将 】
に対する 反発が強まったのですが、 逆らえなかったのです。
彼の後には、 元老 山縣有朋 総司令官がいたのです。
【 山縣 有朋 陸軍大将 】
山縣 有朋 公は、 この機会に、陸上兵力と、海上の艦隊で旅順を
攻撃せしめ、 ここを占領し、さらに、対岸の清国領の山東半島に上陸し、
清国海軍の軍港を押さえてしまおうと考えていたのです。
攻撃してくる心配が無くなると考えていたようです。
このような 背景で、 傷ついた日本海軍の艦艇は、翌日、 さらに駒を
進める事になっていったのです。
【 明日に続く。】