第1703回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1702話 戦史を現地で学習するの事。 2016年11月27日日曜日の投稿です。



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  私達、海軍兵学校第52期の士官候補生の部隊が、当時日本国内であった

のですが、 この海域に海軍の練習艦隊が転進したのは訳があって、 戦史を

現地で実際に見学して勉強すると供に、海外に練習航海に出るまでに、艦艇

生活、そして海の自然を知る事、こう言う事が大切と考えて、練習艦隊 先任参謀

の 日暮 豊年海軍中佐によって 行動予定が計画されたのです。


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         【 練習艦隊 先任参謀 日暮 豊年【とよたか】 海軍中佐 】



 そして、現地を歩く前に、艦内に於いて、当時のお話しを聴講した後、現地を

訪ねて、 もし 自分が将来指揮官となって、出陣した場合、 自分ならどのように

部隊の指揮を行うのかと、考える事が大切な事とされていたのです。

つまり、過去の出来事に学んで、 将来に生かすことが求められていったわけ

です。



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 数回にわたって紹介した、 大狐山沖合の 中国の清国の艦隊と、日本海軍の

連合艦隊 本隊と、第1遊撃隊との戦闘の前後にはいろんな出来事があって、

私達は、艦内でその説明に耳を傾けていったのです。



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                  【 全長8キロの要塞 九連城要塞 】



   当時、明治27年 清国の宋 慶 将軍という人が、兵力2万人程度で鴨緑江

という 朝鮮半島と中国の関東州の境の大きな川を渡河して、平壌に兵を進めた

のです。


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                 【 平壌に進撃した 宋 慶 大将軍】



つまり、 中国の清は、朝鮮半島を占領しようとしたわけです。

 これを知った日本は、 大本営を 東京から、 広島城に移して、ここを首都と

したのが、 明治27年9月13日 つまり、 大狐山沖合の海戦の数日前であった

わけです。


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                     【  広島大本営 】




    明治天皇は、東京から 広島城に移られ、 ここが首都となり、閣僚等も

   広島市に移動したのです。


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    このような状況の中、 清国艦隊は、4千人の兵力を援軍として、九連城

に送るため、 大規模な輸送船団と、護衛艦隊を編成して、 大狐山沖合に進出し

日本海軍との海戦に発展していったのです。



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          【 朝鮮征討 第1軍 総司令官 山縣 有朋 陸軍大将】


  日本軍は、 朝鮮半島の仁川に 第一軍を上陸させ、清国の軍隊と、平壌

衝突することになって行ったのです。



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   みなさん、どうでしょうか、 中国人は朝鮮半島を占領して 植民地にしよう

として、 そして、日本も同様に 軍勢を朝鮮半島に進めて、現在の北朝鮮の首都

平壌で大規模な戦争になって行ったのですが、 見方を変えて、 朝鮮半島に住ん

でいた人達の目線で考えて見ると、 とんでもないひどい出来事であったのです。



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               【 平和を説き、 団結を訴えた 孫文 先生】


  以前紹介しましたが、 孫文先生が 平和を説き、いろんな事を語り、本を書き

世間に訴えて、「すばらしい。」と評価を受けたのですが、 当時の権力者は誰も

相手にしなかったというお話を紹介し、その後、孫文先生は 武力を整え、武力で

権力者を従わせようと考え、 共産主義の独裁政治に進んで行ったわけですが、

当時、 朝鮮半島が 王制の政府があったのですが、軍事力が無かったので、

外交で相手にされなかった、 勝手によその国が軍隊で入ってきても、国民を

守る事が出来なかったわけです。

 そして、支那人と日本人が勝手に戦争を始めて、 朝鮮半島の人は巻き添え

になって、家が焼かれたり、殺されたりしていったわけです。

 国が ちゃんとした防衛戦力を持って、 よその軍隊の進入を阻止できたら

このような事は起こらなかったでしょう。

  当時は、口で平和を叫んで、外交で和平をと考え、訴えても誰も相手にしない

そういう時代であったのです。 

 これは、今現在でも一緒なわけです。

 平和を保つというのは、今でも、口先で平和を唱えても、ダメなのです。

 平和外交とは、ある程度の防衛戦力、そして 経済力があって、初めて

 相手の権力者が認めて、初めて成り立っていくことなのです。

 当時の朝鮮王朝のように、弓矢、刀、槍 だけの貧弱な戦力では、権力の

 亡者から、何を提案しようが、相手にされなかったのです。


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    ところで、日本陸軍は、中国の関東州を武力平定しようと、第2軍を編成し、

 その上陸地を 遼東半島の花園口に決定し、その準備を始めたのです。

 その計画を実行するには、 徹底的に 清国艦隊を無力化する必要があったの

 です。

  つまり、制海権という物を 確実にして、輸送船が攻撃されないようにする

必要があったわけです。


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   明治27年9月18日、 298名が戦死し、131発の砲弾が命中し、大損害

  を出した、連合艦隊は、死傷者をおろして、 弾薬、燃料の補給をすると、同日、

  動ける艦艇のみで、再度、清国艦隊を壊滅させるため、出陣することになって

  行ったのです。


     【明日に続く。】