第1704回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1703話 逃走した清国艦隊の事。2016年11月28日月曜日の投稿です。
1894年 明治27年 9月17日の翌日、 燃料弾薬を補給して、動ける艦艇
松島から橋立に変更し、旅順沖合の海域をめざしたのです。
清国艦隊は、 被害甚大で、内輪もめもあったようで、旅順の港に入った
まま 姿を現さなかったのです。
そして 19日に連合艦隊は、一端、引き揚げることになって行ったのです。
ところで、世界の海軍関係者の間で 当時の海戦の定石であった陣形の
横従陣から 中世の軍艦のように、発砲しながら前進し、 衝角 を使用して
相手に 体当たりして 喫水線の下部に大穴を開けるという戦法が 過去の物
になっていった海戦であったのです。
【 衝角 艦首 体当たりして、相手の側面に大穴を開ける。】
そして、日本海軍のその後の伝統的な 艦隊行動の模範となって行った
縦従陣の戦法と、 速力の速い艦艇が求められていったのです。
どういうことかというと、この海戦では、 速力が遅いと、 相手の攻撃を受け
ても回避出来ず、 衝角攻撃などで 追突されると 大きな被害が出るわけです。
それ故、 相手より速い速度で、動き回り、 相手との距離を保ちつつ、 砲撃する
こう言う戦術で海戦に日本海軍は勝利していったのです。
そして、 動き回っていた方が、敵の砲弾が当たりにくいと言うことも実証された
のです。
相手が 動き回っていると、 大砲を発射しても、なかなか砲弾が命中しない
わけです。
清国艦隊は12隻の艦艇のうち、5隻を失い、700名以上が戦死し、700
発近い砲弾が着弾したようです。
ところが、艦隊を組んで 高速移動していた日本海軍の艦艇の被害は、
298名が戦死し、 131発が着弾したものの、沈没は一隻も無かったのです。
つまり、清国艦隊と比較すると6分の1程度の着弾で、戦死者も半数以下で
あったのです。
【 当時の連合艦隊 司令部 】
この明治27年の大狐山沖合の海戦を後の世では、第1次黄海海戦と呼んで
います。
この海戦で、極東の島国 日本が西洋諸国に注目される事になっていったの
ですが、東洋人がこれ以上 力を持つと 自分達の邪魔になって行くと思われ、
西洋諸国、 ドイツ、フランス、ロシアなどの国に、いろんな妨害工作を受けて
いくことになっていった 原因の海戦でもあったのです。
【 明日に続く。】