第1706回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1705話 東学党の乱の事。2016年11月30日水曜日の投稿です。
みなさん、西南戦争というのを聞いた事があると思います。
したのですが、 この戦争の発端は、 明治政府が武士という身分を無くした
わけです。
日本国内の特権階級であった武士が禄を失い、 収入が無くなって、生活に困窮
し、大きな不満が各地に渦巻き、これらの不満を何とかするため、 失業した武士
と言って、西郷隆盛らが実行しようとしたのを、 「 国が潰れてしまう。」と反対した
のが、岩倉 具視や大久保 利通らでした。
当時、 武士を再度雇用して、戦争をするお金が明治政府になかったのです。
戦争をするより、 鉄道を整備し、工場を作り、港を整備し、司法制度を整え、西洋
に追いつく事が第1であると考えたわけです。
ですが、その後、日本各地で、武士、つまり 士族の反乱が多数起こっていった
のです。
その後、日本と朝鮮との間で、日朝修好条規 と言う条約が結ばれたのですが、
その締結後、 日本の船が、朝鮮の砲台に砲撃されたり、日本領事館が暴徒に
襲撃され日本人が14名殺害されたり、いろんな事件が続き、摩擦が起きていた
のです。
「西洋の物まねをする必要はなし、外国人を追い払え。」と言う運動が起きて
いったのです。
自分達の身分、 特権が失われては都合が悪かったわけです。
【 大院君 】
当時の朝鮮は、 日本のように西洋を模倣していち早く近代化を進めようと
いうそういう改革勢力と、 今までの封建制度を維持しようという、身分のある
政争を繰り広げ、政治が乱れ、 国民に重税をかけていた結果、民衆の生活が
成り立たなくなり、社会不穏が発生していったのです。
食べていけなくなった民衆の反乱、 つまり 農民の一揆が各地で発生していった
のです。
当時、東学党という 宗教団体があって、 この宗教団体が世直しを叫び、全土
のです。
当時の朝鮮の王宮の中も、二つに分かれて、権力闘争に明け暮れて、
民衆のことなどは二の次になって行ったのです。
王宮の中は、 先代の国王派と、 現在の国王派とに別れて、 抗争を繰り
広げていたわけです。
先代の国王派は、愚かにも 清国に援軍を要請し、 自分達のために、清の
陸軍を 支援の為に朝鮮半島に招いたのです。
この清国の軍勢が、平壌を占領し、 駐屯したわけです。
もう一方の 勢力は、日本に援助と合力を依頼し、 愚かにも仁川に
日本の陸軍を招き入れたのです。
日本側の立場は、以前 日本領事館が襲撃され、日本人が殺害された
ので、 東学党の乱で同様の事があったら行けないので、 在朝鮮の
日本人の生命財産の保護という名目であったのです。
両者とも、 朝鮮半島を征服しようと、 王族の政治闘争をおあり、
油を注いで、 風を送っていたわけです。
このままでは、朝鮮が滅んでしまうと気がついて、 一揆をやめていったのです。
これが 1894年 明治27年の7月から8月頃の出来事です。
ここで、 朝鮮の王朝の勢力も、それに気がついて、 団結して国を守れば
良かったわけですが、 自分の立場のことしか考えず、どんどん戦争に巻き
込まれていったのです。
【 清国 陸軍 宋 慶 大将軍 】
日本側は、清国に、「両国が手を組んで、 2国で朝鮮半島を統治しよう。」と
提案したようですが、 清国がこれを拒否し、 日本に対して、「朝鮮半島から
日本人は出ていけ、 朝鮮は、古来から 清国の属国である。」と、申立て、
日本側の和平案を蹴ったようです。
これを聞いた 山縣 有朋公らは、 「 なにをようるんなら、ぶちくらわしちゃる。」
と叫んで、 清国と他人の国の朝鮮半島で戦争をすることになっていったのです。
このような大まかな経緯で、 初めは、朝鮮半島に滞在する日本人の駆けつけ
警護という名目で軍隊を派遣していたのですが、 初めに800人の部隊が、どん
どん増やされ、7000人となり、 さらに どんどん増えていき、数万人となり、さら
に兵力が増えていったのです。
朝鮮の王族は、 自分達の愚かな権力闘争の結果、 ライオンとトラを招き
入れてしまったことにやっと気がついたのですが、 気がついた時はもう
遅かったのです。
【 明日に続く。】