第1715回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1714話 陸軍の海城作戦の強行の事。2016年12月10日土曜日の投稿です。




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                  【 内閣総理大臣 伊藤 博文公 】


   1894年 明治27年、 当時の陸奥 外務大臣が 吐血して倒れ、外務大臣

  が病床に伏し、伊藤 内閣総理大臣外務大臣を兼務する中、国際社会の日本

  批判が相次ぎ、これ以上、戦争を行うと後に災いが訪れると悟り、 当時の首都、

 

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               【 当時の 日本の首都  広島大本営 】


 広島市広島城で御前会議が開かれ、 戦況の良い間に、早期講和という方針

が確認され、それと同じくして、明治27年11月22日 清国側から、即時停戦、和議

の申し入れがあったのです。

 これらの清国側の和議の申し入れは、同時に国際社会に通達され、西洋諸国

 の知る所となったのです。



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              【 第1軍 総司令官 山縣 有朋 陸軍大将 】


  ところが、 当時長州閥を率い、絶大な力を持っていた山縣 有朋 公は、

 「 なにをようるんなら、 戦 いうもんは、とことん、やらにゃーいけんのんじゃ。」

 「 陸軍は、内閣の軍隊ではなく、 天皇陛下の軍隊じゃけぇ、 戦に 口をはさむな。」

 と、公言し、 強引に次の作戦を始めていったのです。



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     当時、日本陸軍は、鴨緑江の川を越えて、清国領内に進み、内陸の

    清国の軍勢が防衛戦を張る中央の 海城 を攻略する作戦を発動し、

    桂 太郎 陸軍中将の指揮する、 名古屋第3師団が、海城攻略の主力と

    して当地域に進軍することになっていったのです。


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    実は当時、 名古屋第3師団だけでなく、 東京第1師団や、広島第5師団

   にも、補給路が当時は道が悪く、輸送が滞り、食糧、武器、弾薬が届かなく

   なっていたのです。

   なにしろ 食糧などは清国が放棄して、残していった食糧物資を日本兵

   調理して、食いつないでいたという程度、 後方からの補給が来なくなって

   いたのです。

   そして、弾薬に至っては、定数の2割程度、 2日分程度の弾薬しか

   現地になかったそうです。

   そのような事情で、第1軍の参謀長 小川 又治 陸軍少将は、「攻撃を態勢が

  整い、 各部隊に配給が届くまで延期しては。」と、山縣 総司令官に意見を

  具申したそうですが、 「 戦いうもんは、相手が、息をついて、体制を整えん

  ように、 突いて、突いて、さらに、突いて、 刀を振り下ろすもんじゃ。」と

  叫んで、 強引にこの作戦が開始されたのです。


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     桂 太郎 陸軍中将の 名古屋第3師団は、弾薬食糧がとぼしい中、

   山縣総司令官の命令で、 清国領、 海城 に向かって攻撃をかけていった

   のです。



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               【 後の内閣総理大臣 桂 太郎 陸軍中将 】


    この 海城攻撃作戦は、 補給路の確保の事を、おろそかにしたため、

    進撃した 第3師団は、孤立して、飢えに苦しむことになっていったのです。

    そして、日本は、 国際社会から非難されることになっていったのです。

    【明日に続く。】