第1716回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1715話 清軍の海城の空陣の計の事。2016年12月11日日曜日の投稿です。






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  アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、イタリー、オランダなどの西洋諸国が

日本の侵略行為を非難し、 朝鮮半島及び、清国の遼東半島から、即時停戦

して大陸から撤退するように勧告し、 清国からも、即時停戦、講和の申し入れ

があった当時、 山縣 有朋 総司令官は、さらに清国領に進撃を開始したのです。



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  当時の日本陸軍 第1軍の陣構えは、右翼に、広島第5師団、 左翼に、名古屋

 第3師団の配置で、 桂 太郎 陸軍中将の指揮する名古屋第3師団は、海城

 に進んで行ったのですが、 清軍は撤退したのか、 たいした抵抗も受けずに、

 海城を占領したのです。



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   ところが、 清軍は海城から距離をとって 広大な大地を利用して、第3師団の

補給路を攻撃しては、撤退を繰り返し、 海城から第3師団が出撃すると、おびき

寄せるように撤退し、 別働隊が後方を攻撃する戦術で交戦し、海城と 清軍は

にらみ合いを続けたまま対峙することになっていったのです。



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         【 当時の 名古屋第3師団長 桂 太郎 陸軍中将 】


    1894年12月13日が過ぎると、日本陸軍の動きを止めたのは、清軍でも、

  国際社会の干渉でも、伊藤 内閣総理大臣でも、 誰でもなく、 寒冷前線

  寒波であったのです。

  当時、急激に冷え込み、すべての物が凍り付き、日本軍への補給が不可能に

  なっていったのです。



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   当時の資料によると、右翼の広島第5師団は、弾薬食糧不足で動けなくなり、

 名古屋第3師団は、弾薬不足と食糧不足で 海城で孤立し、 清軍に包囲される

 ことになっていったのです。

 当地は日本では体験できない程度の極寒の気候で、名古屋第3師団では、

 凍死者が続出し、 なんとか、食糧だけでも補給が出来ないかと こんな状況に

 陥っていったのです。


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   第1軍司令部では、海城で孤立した状態になった、名古屋第3師団に

物資を届けるため、 部隊を出発させたのですが、 途中で 清国陸軍の遊撃隊

に攻撃される事になっていったのです。

そして、 それを阻止しようと 海城から出撃した 名古屋第3師団と、大規模な

戦闘に発展していったのです。


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    海城に 守備隊を残して、残り少ない弾薬を持って 城外に出陣したのは

   兵力4千で、名古屋歩兵第6連隊などの混成部隊は、極寒の中、清国の

   陸軍部隊と戦闘に及んだのですが、 400名近くが戦死し、海城に撤退

   することになったのです。

   このまま、 海城の 名古屋第3師団を放置すると、 寒さと飢えで 自滅

   する恐れがあり、 第1軍司令部では、援軍を送る計画を立てるのですが、

   肝心の 第1軍の総司令官 山縣 有朋 陸軍大将が、 極寒の気候の中、

   病に倒れることになっていったのです。 


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               【 第1軍 総司令官 山縣 有朋 陸軍大将 】


   山縣 有朋公が 強引に食糧 弾薬が不足する中、推し進めていった 海城

   攻略作戦は、成功したかに見えたのですが、 実は、清国の陸軍のしくんだ

   囮の空陣の計で、 桂 太郎 陸軍中将の指揮する 名古屋第3師団は、

   海城に 誘い込まれ、 周囲の補給を妨害され、 飢餓と凍傷に悩まされる

   事になっていったのです。



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   ところで、 病気になって倒れた、山縣 有朋 公は、さらに止まらずに、攻撃

  せよを繰り返し病床で命令を語ったそうで、 第1軍の 参謀長 小川 又次 

  陸軍少将は、この命令に困惑し、とにかく、第3師団をなんとかせねばと 



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         【 第1軍 参謀長 小川 又次 陸軍少将 福岡県 出身 】



  山縣公の命令と、現実との間で、対応に苦慮することになっていったのです。


   【 明日に続く。】