第1719回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1718話 明治時代の第1回 ミス、ワールドコンテストの事。

                         2016年12月14日火曜日の投稿です。




本日の昔話は、すこし戦訓話からそれますが、乃木 希典閣下の人柄を知る

お話しを紹介したいと思います。

戦後の現在 知る人は少ないのですが、当時の世相を知るうえで、興味深い

お話しです。 




イメージ 1


            【 陸軍 歩兵第1旅団長 乃木 希典 陸軍少将 】



イメージ 3




   第2軍の 遼東半島での戦闘から、 急遽 海城方面の戦線に転進する

事になった、乃木 希典 陸軍少将の指揮する、 歩兵第1旅団は、新任の野津

第1軍 総司令官の 隷下となり、 名古屋 第3師団の救援に向かうことになって

いったのですが、 乃木閣下 と 野津 陸軍元帥の間には、 薩摩と長州の垣根

を越えた交流が行われる事になっていったのです。

それは、 1人の少女のの美人コンテストに起因していたのです。


   


イメージ 2



   日清の戦争から、13年後の1907年 明治40年9月 アメリカの新聞社の

シカコ゜ トリビューン紙が、世界の美女を決める 「 ミス ワールドコンテスト。」

と銘を打った 美人コンテストを行ったのです。

その 日本予選として、日本の新聞社の時事新報社が主宰する、「日本美人写真

募集。」 というのが 全国に広告が出され、 美人の写真の募集が行われることに

なっていったのです。

その一等の賞金は、3千円という高額金額でありました。

現在、何を基準にするかで、変動がありますが、おおよそ810万円程度の

賞金になります。

その審査員は、 彫刻家の 高村光雲先生等 13名が審査にあたったのです。

日本全国から 7千人程度応募があり、13名の審査員が満場一致で、選んだ

美女の写真が、 末広 ヒロ子 さんの写真であったのです。



イメージ 4



         【 当時16才 の 末広 ヒロ子 さん 学習院 3年生 】




  審査員が 満場一致で決定した 初めてのミス ワールドコンテストの美女は

16才の 学習院の3年生の末広 ヒロ子さんだったのですが、 彼女は応募の

事は知らなかったのだそうです。

 身内の 兄が、 勝手に彼女の写真で応募したそうで、知らない間に有名人

になっていったのです。



イメージ 5



   彼女の写真は、世界中に日本の美女として紹介され、有名人になっていった

のです。

 彼女の父親は、薩摩藩出身の官僚で、 末広 直方さんと言って 高知県知事や

 岩手県知事を歴任していた有名なお父さんであったのです。



イメージ 6
  



      当時、女性が 女学校などに行く事が出来た人は、ほんの一握りで

    良い家の娘さんしか通学できず、 また、学習院というと、 それは良い

    名門のお金持ちのお嬢さんしか 通学できなかったのです。

    ところが、 学習院の3年生が、アメリカのミス ワールドコンテストの日本

    大会で選ばれたとしれると、当時の学習院の教員は、「 おなごが この

    ような破廉恥な会に出るとは何事、けしからん。」 と、 こう言う教員が当時

    多かったのだそうです。



イメージ 7
 


                       【 学習院 の正門 】





     当時 学習院の院長をしていたのが、乃木 希典 閣下であったのです。

    当時 教員会議で、「末広 ヒロ子 不届き至極なり、退学処分にすべし。」

    と、教員会議で衆議が一致し、 乃木閣下も 反対することなく、 彼女は

    諭旨退学処分となったのです。



イメージ 8



   戦後の現在の物差しで考えると、 「 いかがなものか。」と苦情が出そう

ですが、それが明治時代の 女性への扱いと、偏見であったのです。

 彼女は、一言も何も 反論することなく、 学習院を去っていったそうです。



イメージ 9




      数ヶ月後、 とある人より、 末広 ヒロ子さんは、自ら応募したには

    あらず、 兄が勝手に写真を送って、 賞金を受け取ったらしいとの話を

    聞いた乃木閣下は、 しばらく沈黙し、 ヒロ子さんが兄の立場も考えて 

    言いわけをせずに 退学になったことを、 大きな間違いであった事を自ら

    悟る事になったのです。

     「 かわいそうな 事をしたもんじゃ。」 と 静かに語り、沈黙したのでした。


  【 明日に続く。】