第1720回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1719話 末広ヒロ子さんの事。 2016年12月15日木曜日の投稿です。
【 世界ミス ワールド 日本コンテスト 優勝 末広 ヒロ子さん 学習院 3年生】
【 前話の続きから 】
1908年 明治41年の3月5日に発表があった、 事実上、日本で初めての
世界ミスワールド 日本コンテストで選ばれた 末広 ヒロ子 さんは、本人が
知らない間に、兄が応募したことによって、賞金3千円相当【 現在の800万円
相当】を受け取ることになっていったのですが、 当時通学していた 学習院は
【 学習院 】
「 おなごが、恥さらしな、学習院の面汚し、けしからん。」と言う 教員が当時
大騒ぎし、 教職員会議で、「退学にすべし。」と 決定され、 諭旨 退学処分
となっていったのです。
当時、学習院の院長をしていた 乃木 希典 陸軍大将も、会議の結果を追認
し、 末広 ヒロ子 さんは、 学習院を 退学させられたのです。
当時の学習院の教員は、「 芸者や、奴ではあるまいし、写真を出して
世界中に 写真が印刷され 配られることになっていった事に、当時の
物差しで、 おなごがやることではない。」と、決めつけたのです。
【 学習院 院長時代の 乃木 希典 陸軍大将 】
彼女が 諭旨退学になったその後、 しばらくして、「 実は、末広ヒロ子さん
が知らない間に、兄が勝手に彼女の写真を、コンテストの主催者の時事新報社
に送って勝手に応募し、 賞金を受け取ったらしい。」との 話を聞いた 乃木
閣下は、 しばらく沈黙した後、 「 かわいそうな 事をしたもんじゃ。」とつぶや
き、 末広邸に自ら出向いて 謝罪したそうです。
乃木閣下は、 自分の兄の立場を考え、 言いわけをせず、何もいわず
学習院を去っていった彼女の事を考え、 彼女の事で 何かをやらないと
いけないと考えるようになっていったようです。
末広 ヒロ子さんが 将来 幸福に暮らせる良い良縁は無いかと、自分の
知る限りの陸軍将校や、いろんな名士を捜したそうですが、これと言う良い
人物がおらず、 ため息をつくことになっていったのです。
を歴任した名士で、 釣り合いの取れる家がなかなか無かったのです。
つまり、 普通の人ではダメであったのです。
【 野津 道貫 陸軍元帥 】
乃木閣下が、ため息をついていた時に、 野津元帥がやってきて、「 おいの
息子はどうでごあんど。」 と、声がかかり、 乃木 閣下も考えたわけです。
末広 ヒロ子さんの父の 末広 直方氏と 同じ鹿児島の同郷で、 陸軍元帥
の野津元帥と言えば、日清、日露の戦争の大勝利の功労者として、華族に
列せられ、天皇陛下の覚えも目出度く、伯爵の称号を賜り、当時 申し分ない
家柄であったのです。
【 貴族院議員 野津 鎮之助 陸軍少佐 】
野津元帥の 無くなった兄君の 野津 鎮雄 陸軍中将の名から、鎮という
字を引きいつだ、 鎮之助 さんは、当時 陸軍少佐で、貴族院議員に推挙
されたばかりの 好青年であったのです。
このような訳で、 末広 ヒロ子さんが、日清戦争の時の第1軍の総司令官
の野津 道貫 閣下の子息と結婚することになったのです。
当時の新聞は、「ミスワールドコンテスト 優勝者 公爵夫人に。」と、紹介
されることになって行ったのです。
【 明日に続く。】