第1721回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1720話 乃木 歩兵第1旅団の事。2016年12月16日金曜日の投稿です。
少し話がそれてしまいましたが、1894年 明治27年12月18日 病気で
倒れた、 第1軍 総司令官 山縣 有朋 陸軍大将に替わって、 広島第5師団
師団長 野津 道貫 【 みちつら】 陸軍中将が 第1軍総司令官に着任し、
海城で孤立している 桂 太郎 陸軍中将の率いる 名古屋第3師団に 食糧
武器弾薬を運んで、 なおかつ、その後、援軍として海城に進出する事を目的と
した作戦が立案されていったのです。
【 海城 城壁 】
当時、トラックなどはない時代、馬車や牛車や、人力による大八車などでの
過酷な補給物資の運搬作業を、 小銃を担いで、 第1旅団の兵士が自ら
行う事になっていったのです。
現地の冬は、日本とは比べものにならない程度の寒さで、第1旅団は、
東京の第1連隊、 群馬県 高崎の15連隊で構成されていたのですが、
道は通りにくく、 水は凍っていて、飲めずと、 苦難の補給活動であった
のです。
海城に近づくと、清国陸軍の遊撃隊が、補給物資を強奪しようと、近づいて
攻撃してくるわけです。
銃弾や、弓矢が飛んでくるわけですから、荷物運び所ではありません。
こんな苦労をしながら、明治27年の年末の 12月28日 乃木 希典
陸軍少将の指揮する 東京歩兵 第1旅団は 海城に到着したのですが
凍傷にかかって 動けない兵士、 凍死した兵士で、あふれていたのです。
この当時の戦訓として、 まず、生水は飲めないわけです。
井戸があっても、 水を飲むと、腹をこわして倒れていったのです。
凍傷、 凍死を防ぐのにはどうしたら良いか、 こう言う事も大変な戦訓と
なっていったのです。
それから、 みなさんは信じないと思いますが、 小銃の先に取り付ける
銃剣や、軍刀が、極寒の中、 使用して 外力を加えると、よく折れるという
こういう事案が増えていったのです。
中国大陸という場所は、 日本の本土とは、気候も違い、すべての事が
日本の物差しでは測れない 独特の土地であったのです。
それ故、 寒波の為、 日本陸軍の動きは止まり、食糧の配給も最小限
にして、 寒さが収まるのを海城に立てこもって 待つしかなかったのです。
【 清国 陸軍 宋 慶 大将軍 】
海城に立てこもる、 名古屋第3師団と、東京第1旅団に対して、
年が明けて、 1895年 明治28年 1月 清国陸軍の宋 慶
将軍は、合計 5回の総攻撃をかけてきたのです。
左手の一方では、西洋諸国に根回しをして、 和平協議を呼びかけ、日本を
悪者にして、 右手では 日本陸軍の弱い部分に総攻撃をかけてくる 清国に
対して、日本陸軍の内部では、 「 和平の必要なし、断固清国に鉄槌を下す
ぺし。」 と、 こう言う意見が広がって行ったのです。
当時の陸軍の中に、海軍を使って、 新たな戦争を始めようという動きが
始まっていったのです。
これらの 武力を持つ軍人の暴走は、 政治家や官僚には統制でき
なかったのです。
なぜかというと、明治憲法の欠点であったのですが、日本陸海軍は、
なかったのです。
人殺しの道具を持つ軍人は、自分の意見が通らなければ、腹を立て、大声を
出し、 役人や政治家を脅迫し、 戦争に走って行ったのです。
戦争をして、勝利すれば 英雄となり、勲章がもらえ、昇進できたわけです。
戦争がないと、 訓練ばかりで、軍人はヒマなわけです。
「 陸軍の邪魔をする政治家や、役人は殺してしまえ。」と、こうなっていったのです。
これは、 日本だけではなく、 いろんな国がそうなっていったのです。
このような 動きを ファシズムと言います。
本来は、イタリー王国の 退役軍人の会 イタリー戦闘集団 ファッシーが
母体であったのですが、 どんどん 軍人が暴走していったのです。
そして、 だれも命をかけて、戦争に待ったをかけていく人は、少なくなっていった
のです。
よって、日本国民が手に入れた 大切な制度なのです。
これを、 歴史の悲劇を忘れて 手放すようなことは、行ってはならないのです。
【 明日に続く。】