第1724回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1723話 ポートエドワードの事。 2016年12月19日月曜日の投稿です。





イメージ 1



  1924年 大正13年の8月、 私達、海軍兵学校 第52期の士官候補生

部隊を載せた、日本海練習艦隊は、旗艦 浅間 を先頭に、 八雲、出雲の

順番で、縦従陣を構成し、 黄海を、 大狐山沖合を通過し、 そのまま山東

半島のポートエドワードに向けて航海していたのです。




イメージ 12
 



  ところで、戦後の現在、ポートエドワードなる地名を知る人は少なくなって

しまいましたが、 私達が練習艦隊に配属されていた 大正13年当時、前話で

紹介した、支那山東半島の威海衛 【 ウェイハイ】と言う場所は、イギリス領

となり、ポートエドワード という名前に変更され、イギリス領となっていたのです。



イメージ 2


   私達は、 どうして日本が山東半島の威海衛を占領し、イギリス領になって

  いったのか、 そして、 その西側が、大ドイツ帝国領になっていったのかという

  経緯のお話の講話を聞くことになっていったのです。



イメージ 3



  この山東半島遼東半島で、多くの人が戦死し、 やっと占領した当地を、 

 西洋諸国は国際法違反の侵略と決めつけ、 軍事力と 金融圧力で、撤退を

日本に要求したのです。   

  日本国内には、これらの西洋諸国と一戦してでも返還する必要なしと言う意見

が多数を占めていたのです。



イメージ 4



    その意見の 代表者が、日本陸軍であり、 山縣 有朋公であったのです。

    この際、北京を武力討伐し、日本を大帝国にしようと考えていたのです。


イメージ 5



    日本陸軍では、「 支那は広大な領土であるが、 いろんな支配者が乱立し、

   分裂していて、 これらの軍閥を時間をかけて一つ一つ武力討伐すれば

   日本の国力でも 大陸を統一する事が可能であると、 申し立てていたのです。

   そして、日清戦争に、 部分的に大勝し、 国民も、 同調する世論であったの

   です。


イメージ 6



       当時、 日本中の人は新聞を読んで、大勝利の記事に、 みんなで

       「 大日本帝国万歳。」 と、 三唱していたのです。



イメージ 7



  そのような 動きに 命をかけて、「 待った。」をかけたのは、内閣総理大臣

伊藤博文公であったのです。

 そして、 伊藤さんと外務省が、 山東半島遼東半島を清国に返還したのです。

 当時、日本の大蔵省の国庫の中は、 戦費で借金まみれとなり、 弾薬なども

 底をつき、 西洋諸国を相手に一戦するなど、国を滅ぼす行為と考えたのです。

 伊藤さんは、「 1分違って、敗戦すると、日本が西洋諸国の植民地にされる。」

 と心配したわけです。

 ところが、 山縣 有朋 公 達は、「 おみゃーなにようるんなら、 いくさ いう

 もんは、やってみにゃーわからん。」 と言うわけです。

 その後、 伊藤さんと山縣 公は大げんかとなり、 伊藤さんは、内閣総理大臣

 続けられなくなり、 内閣総辞職に追い込まれてしまうのです。



イメージ 8

 
   日本が撤退した後、 遼東半島は、ロシア帝国が入り込み、 旅順を要塞化し、

 山東半島には、 ドイツとイギリスが入り込み、 ここに軍事要塞を構築し、植民地

 としていったのです。

  日本が占領すると、 侵略行為と批判し、 日本が撤退すると、 今度は弱った

  清国を脅迫し、 その土地を、自分達の植民地にして、軍事要塞を建設し、その

  土地の支那人を支配し、 そして、 ここを拠点に 中国の進出の拠点として

  行ったのです。

  当時、そのまま占領して日本が居座っていたら、 日露戦争の大きな犠牲と

戦費は、3分の1以下だったかもしれません。

 第1次世界大戦で、日本が大ドイツ帝国と戦火を交えることもなかったかも

知れません。

  と言うのが、旅順要塞や、チンタオ要塞が、無かったとしたら、戦死者は

 半数以下であったかもしれません。

 このあたりの事は、 評価が割れるところです。

 


イメージ 9


    孫文先生が、「中国人は団結し、平和を求め、 庶民の暮らしが良くなる

   政治を民主的に行うべきである。」と、 説いて歩かれたのですが、当時の

   軍閥や、西洋諸国、日本は、彼を相手にしなかったのです。

   外交の交渉の窓口と認めなかったのです。

   それはなぜか、 孫文先生は、中国の人達に人気があったのですが、武力を

   持ち合わせていなかったのです。

   外交というのは、 口だけで平和を説いても、だれも話は聞いても、相手に

   してくれないのです。

   国として、 最低限の武力、国力、資金があって、初めて対等に外交が出来

   るのです。



イメージ 10
  

   
      朝鮮半島の人々も、 中国大陸の人達も、自分達の土地を守る事が

      出来る武力を持ち合わせなかったので、 西洋諸国や日本に食い物に

      されていったのです。

      これらの 行為を 植民地主義と言いますが、 私達は、西洋人に

      怒りを感じていったのです。

      威海衛 【ウェイハイ】は、中国の人が暮らしていたのですが、イギリスの

      領土になっていったのです。


イメージ 11



       私達 海軍兵学校第52期士官候補生部隊の初めての外国訪問は

       中国大陸 山東省のイギリス領 ポートエドワードであったのです。

       
       【 明日に続く。】