第1726回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1725話 イギリス人の植民地支配の方法の事。
2016年12月21日水曜日の投稿です。
関東大震災の翌年の1924年 大正13年の8月の初旬、私達は、当時
ポートエドワードと呼ばれていた、 清国の威海衛 【ウェイハイ】に上陸し、
見聞を広めようと、現地を訪れたのです。
都市であったのです。
戦後の海外旅行と違い、私達には買い物をしたり、飲食したり、そういう自由
行動は認められておらず、 行進する順番も、海軍兵学校の卒業時の成績の
先任番号順で、 厳しい決まりの中の上陸であったのです。
ここ、ポートエドワードには、 イギリス人の総督が1人いて、その人の仕事
とは、植民地の現地人が反乱を起こさないように、うまい具合にコントロールして、
現地人から税金を吸い上げ、本国に利益を送金することであったのです。
当時、ポートエドワードには、英国人は、百数十人程度しか住んでおらず、その
配下に、 インド人の歩兵大隊が駐屯していて、 もちろん 兵士がインド人で、
士官は、英国人なわけです。
いたのです。
では、どのような統帥であったかというと、それは、武力による脅迫と、
身分制度による 統帥であったのです。
身分の下の支那人を統制させていったのです。
自分達の要求を満属させない輩には、 身分を落としたり、 逆の場合は
身分をあげて、優遇し、 その支那人を上手に利用していったのです。
作って、身分と身分の間に溝を作り、 お互いの対立を煽り、巧みに統治
していったのですが、支那人も、愚か者ばかりでないわけです。
申し合わせて、 反抗などを企てると、今度は、インド人の歩兵大隊を
使って、 それらの勢力を武力で抹殺していったのです。
どういうことかというと、 支那人は 物扱いであったのです。
殺されても、なにも言えない立場で、 イギリス人や インド人の兵士は特権
階級で、何をされても文句を言えなかったのです。
それ故、大変恐れていたようです。
インド兵の歩兵大隊 約1000名も、遠くインドからイギリス人によって
人を殺して、現地の支配の先兵をやっていたのです。
支那人の怨みは、インド兵に向けられ、 インド兵にも 身分があって
英国人によって、 操られていたのです。
威海衛の市街地は、 身分によって住む場所が決められ、人々の
移動は制限され、 支那人は、英国人居住地域には、許可が無いと
近づけなかったのです。
当時、イギリス人居住区には、ゴルフ場、プールなども作られて
それはそれは、よい暮らしをしていた反面、 支那人は貧しい暮
らしぶりであったのです。
私達は、明治の初頭、日本が 西洋人に占領されていたら、日本も
同様な結果になっていたのではないかと考えながら、見学して歩
いたのです。
8月の暑い中、 冷たい水でも飲みたいところですが、飲食は禁止
されていたのです。
当地の水は、衛生状態が悪く、飲むと伝染病の危険があり、
ろ過して、殺菌してからでないと飲めなかったのです。
これらの事は、 日清戦争の当時、日本人は知らず、飲んで多くの
患者を出すことになるのですが、 そのお話しは又後日紹介したいと
思います。
【 明日に続く。】