第1729回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1728話 栄城県城落城の事。 2016年12月24日土曜日の投稿です。
1895年 明治28年1月20日 日本海軍 栄城特別陸戦隊が上陸作戦を
開始すると、その情報というのは、60キロ程離れた、威海衛 【ウェイハイ】の
清国の司令部に報告されたのが、午後になってからであったそうです。
そうして、 どうするか、 話し合っている間に、日本陸軍は、第一陣の、第2師団
の 新発田 歩兵第16連隊が、朝8時より 揚陸を開始し、午後には、全部隊が
海岸で準備をととのえて、進撃を開始したのです。
その第一目標とは、 栄城県城と言う、 レンガを積み上げた、中国式の
城壁をめぐらせた 海岸から10キロ先の城塞であったのです。
これらの攻撃には、まだ砲兵隊が上陸していなかったので、海軍も
艦砲射撃や、 海軍の砲で陸軍の支援射撃を行って、攻撃を開始した
のです。
栄城県城とは、栄城の砂浜から、約10キロの所に位置する清国の城ですが、
日本軍の 新発田 第16連隊の 強襲攻撃で あっという間に落城し、1月21
日の夕刻、 日本側が占拠したのです。
日本陸軍は、 栄城県城を 本陣として、 北に海岸沿いに陣をひいて、清国の
出方をうかがい、 栄城湾からは、 後続の部隊がどんどん揚陸されていった
のです。
当時の戦術としては、航空機などは無い時代、 清国側の戦術としては、
日本軍を波打ち際で攻撃し、撃退していれば、勝機があったかもしれません。
ところが、清国の司令官が命令を出したのは、わずか1個大隊程度の軍勢を
栄城に援軍として出発させただけであったのです。
清国側は、偵察活動をおろそかにし、 日本軍の位置、兵力などを把握しない
まま、中途半端な兵力で、反撃を開始することとなっていったのです。
これらの 清国の1個大隊の兵力が 50キロ進撃し、日本軍と対峙した時には
日本側は、数千人の規模の兵力に、海岸からは 海軍の艦艇からの支援艦砲
射撃を受ける事になっていったのです。
明治27年1月22日 今度は、九州から北上してきた、陸軍の熊本第6師団
の隷下の沖原 光竽 陸軍大佐の指揮する 熊本歩兵第13連隊の揚陸が
始まったのです。
これらの事についても、隠密に行われ、 清国の司令部は、まったく把握して
いなかったようです。
【 明日に続く。】