第1730回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1729話 大山 巌 軍司令官の着陣の事。

                       2016年12月25日日曜日の投稿です。





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   1895年 明治28年の1月20日 早朝から始まった、日本陸海軍の山東

半島の栄城の上陸作戦は、当日、あっという間に10キロも進軍し、福島陸軍大佐

の指揮する新発田 歩兵第16連隊が 栄城の城塞を占領してしまったのです。


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  その後も、予定通りどんどんと、仙台の第2師団、熊本の第6師団が続々と

 栄城に上陸し、 武器弾薬食糧なども揚陸され、3万数千という兵力になって

 いったのです。


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   この当時の戦訓というのは、 揚陸の荷役がほとんど江戸時代同様で人力

  に頼っていたのです。

  それゆえ、大砲なども 人で運べるように分解し、砂浜に揚げてから組み立てる

  という方法であったのです。

  これらの作業に数日を要したのですが、幸いなことに、これらの作業中、

  散発的な戦闘はあったものの、清国からの強力な攻撃は無かったようです。



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   先陣の海軍陸戦隊が上陸して5日後、 第2軍の司令部が栄城に上陸して

   その本陣を 栄城県城塞に置いて、 ここを司令部として軍議が開かれた

   のです。


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                 【 第2軍 参謀長 井上 光 陸軍大佐 】


  
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      明治28年当時、 第2軍の参謀長 井上 光 陸軍大佐とその幕僚が

     立案した作戦計画というのは、 北側の海岸線に沿って、 海軍の艦砲

     による支援射撃を受けながら、 熊本第6師団が威海衛にむかって1月

     26日から進撃し、 仙台第2師団の 新発田 歩兵16連隊と、仙台 歩兵

     第4連隊を主力とする部隊は、 南岸を西に進んで、その後、北上し、背後

     の山地を抜けて、後方から威海衛を攻撃すると言う作戦であったのです。
     

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                 【 第2軍総司令官 大山 巌 陸軍大臣 】


     この作戦は、 第2軍の軍司令官  大山 巌 陸軍大将に承認され実行

     されることになって行ったのです。


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    ちょうどその頃、 清国軍は 栄城に侵攻した日本軍を征討するために、

    陸上兵力を威海衛から進撃させ、 日本陸軍の第6師団と対峙させる

    事になっていったのですか、 40キロ程度進んだところで、 清国の兵力は

    1000名程度、 相手の日本陸軍は大軍の万を超える兵力と悟り、進撃を

    中止して、 援軍を求める伝令を 威海衛の司令部に走らせたのです。



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      清国の敗因は、偵察を速やかに行って、相手の位置、兵力を適格に

      把握して、 部隊を運用していくと言う事が出来ていなかった。

      それ故、 栄城に送った援軍というのは、1個大隊程度の小規模な

      兵力であったのです。

      ところが、 現地の栄城に接近すると、万を超える日本軍が防備を

      固めていることを知り、 前進を停止し、防御線を張って、司令部に

      さらなる援軍を求めることになっていったのです。



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          【 熊本第6師団 師団長  黒木 為楨 陸軍中将 】




これらの清国陸軍の動勢を監視していた 熊本第6師団の師団長 黒木 為楨

陸軍中将は、清国陸軍の動きの止まったのを見逃さず、 戊辰戦争の実戦経験

から、相手の弱そうな箇所を見つけて、 集中攻撃をかけることを命じたのです。

いよいよ、 山東半島で初めての 日清の陸軍による武力衝突となっていったの

です。


 【 明日に続く。】