第1731回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1730話 熊本第11旅団の事。 2016年12月26日月曜日の投稿です。
は、第6師団 という 師団があって、 定数は、 第11旅団と、第12旅団と、野戦
砲兵 第6連隊 騎兵連隊から構成されていたのです。
当時、熊本には、 陸軍第13連隊と、第23連隊が置かれていて、この2個連隊
を統帥するのが、 第11旅団であったのです。
1895年 明治28年 1月26日 栄城から、威海衛に進軍することになった日本
陸軍の北部海岸線の先陣は、紹介する第11旅団が主力となったのです。
【 第11旅団 旅団長 大寺 安純 陸軍少将 鹿児島県出身】
当時、前線で部隊を指揮することになったのは、 大寺 安純 陸軍少将で、
この 大寺陸軍少将の 下に、 熊本歩兵 第13連隊 があって、 連隊長が
沖原 光孚【こうふ】陸軍大佐であったのです。
【 熊本第13連隊長 沖原 光孚 陸軍大佐 山口県岩国市出身 】
そして、もう一つの連隊が、 熊本歩兵第23連隊で、連隊長が、 岡村 靜彦
陸軍大佐であったのです。
構成で、日清戦争の当時 部隊を動かしていったのです。
清国陸軍の1個大隊は、勇敢にも、6門のドイツ製のクルップ砲を一斉射撃
して突撃をしてきたのです。
ところで、日本側はどうであったかと言うと、 野戦砲兵第6連隊が悪路で
砲の運搬に手間取り、 小銃とわずかな砲で応戦することになっていったのです。
当時、 道路と言っても 大陸の道は悪路の連続で、重量物や補給
物資の運搬には、大変な労力がかかっていったのです。
冬場で 気温は低下する、 道路は悪路、 履いてきた、草鞋で、凍傷に
かかって、動けなくなる人達が増えていったのです。
これらの出来事には、 第2軍司令部は多いに頭を悩まし、後の日露戦争で
戦訓が行かされていくことになったのです。
【 明日に続く。】