第1732回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1731話 騎兵第6大隊の活躍の事。 2016年12月27日火曜日の投稿です。
1895年 明治28年1月28日 ちょうと、威海衛【ウェイハイ】と栄城の中間
位の場所で、清国軍と日本陸軍は戦火を交えることとなっていったのです。
この清国軍は、アメリカやドイツから法外な高値で売りつけられた中古兵器で
武装していたのですが、これらの兵器は西洋式の性能のよい兵器で、夜明けと
ともに戦闘となっていったのです。
初期の戦闘は、偵察部隊と偵察部隊が接触し、散発的な戦闘であったのが、
日が高くなるにつれて、 激しい砲撃戦と銃撃戦となっていったのです。
弾も撃てば、なくなるわけでして、 後から補給があるのかと思えば
全く無く、 将校は、「引くな、死守しろ。」と言う、こう言う状態であった
のですが、1度押し出してきた 清国軍は、 日本側が万を超える
大軍と知ったようで、 後退し、 距離をとったまま、その場に陣取り
発砲を繰り返すだけであったのです。
それゆえ、 長時間 お互いが 銃撃や発砲を繰り返し時が過ぎて
いったのです。
昼過ぎに、弾薬が到着したと思うと、 食糧などの配給も滞り、兵士達は
空腹になやまされていったのです。
後の道路は 大変な悪路で 馬車も進まず、補給物資が前線に届かなく
なっていたのです。
後に、これらの戦訓が検討され、工兵隊による補給路の整備などが検討
されることになって行ったのですが、 ずいぶん後の事です。
そのような中、日本陸軍の熊本第6師団の司令部が取った戦法は、 騎兵
によって後方に迅速に進出し、 背後から攻撃する戦法であったのです。
騎兵というのは、 馬で速く移動出来、この当時、偵察や、伝令などに利用され、
当時の花形的部隊であったのです。
熊本第6師団の 騎兵第6大隊 駒沢 保定 陸軍少佐の部隊に対して
清国軍の防衛戦の南側面に転進し、 清国軍の後方に進出して、後方より
攻撃する命令が発令されたのです。
みなさんもそうだと思いますが、前の相手と撃ち合いしている時に、仮に
その人数が少数でも、 後から弾が飛んでくると、 ずいぶん不安になる
ものです。
戦闘が始まって数時間後の14時過ぎ、 後から攻撃された清国軍は
どっと、体制が崩れていったのです。
【 明日に続く。】