第1735回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1734話 百尺崖攻略の事。 2016年12月30日金曜日の投稿です。






 今日の昔話は、山東半島の威海衛の東側に構築されていた、中国式の

城塞の攻略のお話しです。


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 日本海軍の連合艦隊の包囲網を突破して、 支那大陸の威海衛【 ウェイハイ】

に逃走した清国艦隊は、 日本海軍の砲撃で損傷していたものの、14隻の軍艦

は、当時、日本側から見ると、大変な脅威であったのです。



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威海衛の湾の真ん中に 島があり、ここに司令部があって、周囲を水要塞と言って

中国式の 海の城塞が構築され、 外海からの攻撃を防御し、 内海の周囲には

城塞があって、沿岸城塞に大砲が備え付けられ、日本海軍の艦艇の主砲より、

射程が長く、 近づくと、発砲する前に、日本側の艦艇が撃沈される恐れがあった

のです。



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   それ故、 海軍の艦艇で遠巻きに包囲し、 陸上から、熊本第6師団が

 第11旅団を先陣として、 威海衛の手前の百尺崖を攻撃し、占領することを

 戦略上の目標とし、 仙台第2師団の兵力は、 後方から、威海衛を攻撃し、

 2方向から当時、陸軍部隊は攻撃を開始したのです。


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 1895年 明治28年 1月26日から進撃を開始した第6師団は、4日後、

 1月30日 百尺崖の清国の城塞の攻略に着手したのですが、 以前紹介した

 ように、悪路で、補給物資が前線に届かず、 定数の3分の1程度の弾薬で

 攻撃を開始することとなっていったのです。


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  当時の戦術として、清国式の城塞というのは、万里の長城を思い浮かべて

いただくと良いのですが、 横に長く、幅が狭く、 そして 直高が高いわけです。

これらの城塞は、 槍、刀、弓矢などには、効果がある城壁であったのですが、

西洋式の大砲には、 コンクリートと違って強度が低く、 時代遅れの陣地で

あったのです。



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    【 熊本 第11旅団 旅団長 大寺 安純 陸軍少将 鹿児島県出身】



 第11旅団の司令官 大寺 安純 陸軍少将らの取った作戦というのは、偵察

の結果、 防御が薄いと判断した箇所に、集中して、有り弾を打ち込んで城壁を

破壊し、ここから切り込んで、内部に進撃しようと言う作戦でした。

 相手の城塞は 横長なので、 兵力は 横に長く伸びてしまい、一点の少ない

兵力を撃破し、 横から攻めると、 相手の一部と戦闘をすれば良いわけです。



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つまり、相手が横に広がっているから、攻撃する日本陸軍も横に広がる必要は

無いわけです。

 ただただ 一点の相手の弱点に、波状攻撃をかけて、 その地点を突破すれば

相手はまたまた 数日前の戦闘のように陣形が崩れると考えたようです。


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    桜井 重寿 陸軍大佐 指揮する 野戦砲兵 第6連隊の一斉支援射撃で

    相手の城壁の一部分を一斉に制圧し、 ここから熊本第13連隊が突破し、

    威海衛に進撃すると、 清国側は一斉に退却したり、降伏していったのです。


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       とぼしい弾薬を 一斉に撃ち尽くし、 後は歩兵の突撃で 城塞を

      一気に打ち破っていったわけです。

      そのような戦術で、百尺崖の清国の前線は崩壊し、日本側が占領

      することになったのですが、 清国兵が逃走した後、何が起こるのか

      当時の第6師団司令部や、 第11旅団司令部は、その先を想定して

      いなかったようです。


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      第11旅団の司令官 大寺陸軍少将は、占領した 清国の陣地に進出

     して、威海衛の様子を望遠鏡で観察していたのですが、清国側の反撃が

     開始されることになっていったのです。

     当時の陸軍の幹部は、 海上の軍艦の事などは、よく考えていなかった

     ようです。

     この事は、後に大きな戦訓を残す事になっていったのです。 


     【 明日に続く。】