第1756回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1755話 清国の欽差大臣の事。 2017年1月21日土曜日の投稿です。
【 当時、清国で 実権を握っていた、西太后 】
日本の戦争の相手国であった、清国というのは、日本人の物差しが通用しない
そういう まつたく違った環境の国で、 清国の中に、いろんな言語を話す民族が
共存し、 広い国土、 大変な多い人口、 いろんな価値観の違った民族が住んで
いて、現在も、明治時代も、 私達が威海衛【ウェイハイ】を訪問した大正末期の当
時もですが、「 おはようございます。」 と言う言葉、北京では、「 ニーザァォゥ。」
と、発音しますが、 この言葉は、北京の周辺のみ通じる言葉で、これが、上海に
行ったり、 広東に行ったり、 奉天に行ったり、ハルピンに行ったりしたら、通じ
ないのです。
これらの事は何を意味するかというと、上海の部隊と、北京の部隊とでは、言葉
が違うので、 命令の伝達、 意志の疎通が大変難しかったのです。
そして、 これらのいろんな人を束ねて統治していくために、 厳しい掟を定めて
理由を問わず、 皇帝の命令に逆らったり、要求される事が達成できない場合、
斬首の刑どころか、 家族や、親族など、関係のない人達まで、逮捕され、広場
で公開処刑されていったのです。
そうしないと、 今度は親族が 仇討ちをしようと、反乱を起こすと考えられていて、
そういうことになる以前に、 皆殺しにして、 禍根を断つことが政治の常識で
あったわけです。
人々に死の恐怖を与えて、いろんな民族を 死という恐怖で従わせ、清国
は維持されていたのです。
ところで、当時の清国は、国土が広いので、いろんな場所で紛争が発生し、
勢力が弱まりつつあったのです。
そこで、日本との戦争を早期に停戦し、傷が浅い内に、早期に収拾しようと
考えたようです。
日本と停戦し、時間を稼いで、その兵力を他の反乱の鎮圧に向かわせよう
と考えていたようです。
そして、その日本との停戦の交渉役に、 当時の外交経験が豊富な人物、
李 鴻章 【 リッ ホンチャン】なる人物に、その役目が言い渡されたのです。
【 清国の 李 鴻章 欽差大臣 】
辞退すれば、 打ち首、 話し合いが上首尾に終わらなければ、親族共々
首が飛ぶ、 そういう清国の恐怖政治の世にあって、 彼は、洋務運動の
中心的な知られた人物であったのです。
洋務運動とは何かというと、 西洋のよい部分を見習って、国力を整えようと
言う運動であったのです、 つまり、 改革派の知られた人物であったのですが
保守派の別の政治グループから見れば、 清国の伝統をないがしろにし、
西洋かぶれの、売国奴であったわけです。
彼等は、 日本との交渉役を 李 鴻章にやらせることで、落ち度があれば
それを理由に、李の取り巻きを一掃し、 殺してしまおうと計画していたよう
です。
前に進むも地獄、 後に下がるのも地獄、 逃亡して外国に亡命すると、
己の命は助かっても、 家族や親族は斬首刑となる。
このような 大変な立場に追い込まれ、 おまけに清国艦隊は全滅し、
日本側と交渉することになっていったわけです。
1895年 明治28年3月14日、 海上ですれ違う日本の輸送船団と、護衛
する日本海軍の大艦隊を見る事になった、 李 鴻章 は、交渉相手が途方
もない軍事力を有する東洋一の近代国家と言う事を 自分の目で認識する
事になっていったのです。
大艦隊を見て驚いている最中、 彼の乗船する船は、あれよ、あれよという
のです。
この文章を読まれているみなさんの中で、自分の命と、妻や子供、父や母、
親戚の命まで背負って、 命をかけて話し合いをしたことのある人は少ないと
思います。
私の場合は、自分の命だけをかけて、死を覚悟して乗り込んだことは、数回
ありましたが、 彼は、支那人の役人の1人であったわけですが、 随分立派な
というか、 度胸のある、肝の座った人物であったのです。
【 明日に続く。】