第1757回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1756話、第2次東学党の乱の事。 2017年1月22日日曜日の投稿です。
1895年 明治28年当時、内閣総理大臣であった、伊藤 博文さんという
養子に入った関係で、 侍の末端の身分となり、イギリスに留学して、英会話
を修得して、 幕末、 高杉 晋作 さんの外国人との通訳をしていた人でした。
その当時に、高杉 晋作さんの部隊、つまり 奇兵隊の軍監で、槍の使い手
の山縣 狂介 という、足軽の下の中間【 ちゅうげん】 という身分であった
後の、山縣有朋公と知り合いとなった様です。
山縣さんのほうが、3才程度年上で、 その下に、伊藤さんがいるという感じ
であったようです。
俊。」と、呼び合う間柄であったようですが、 この明治28年の頃から、両者に
溝が出来ていった様です。
伊藤さんは、 海外での生活、経験が長く、 いろんな国々を視察して、
世界の中の大日本帝国の位置と国力、つまり身の程を知っていた人でした。
そんな、伊藤さんの物差しで、 山縣 有朋公達の、「北京を攻略して、清国を
日本が占領する。」というお話しは、 危険で、国の進路をあやまらす行為と
考えていたようです。
反面、 山縣さんと言う人は、 ドイツの陸軍などを視察に出かけた海外経験
はあったものの、すこし、豊臣秀吉の考えのような所があったようで、朝鮮も
清国も、 日本の領土の延長で、 占領した地域の領民は、仕方がなく、清国や
高麗に従っているだけで、 ここを占領して、年貢を減らして、 上手に統治して
いけば、なんとでもなると考えていたようです。
つまり、言葉の違い、 生活習慣の違い、 文化の違い など、関係ないと
考えていたようです。
伊藤 博文 公の 「 即時停戦、和平協議。」の申し入れに対して、山縣
有朋公は、「 しゅん、おみゃーなにようるんなら、 おみゃー戊辰の時【戊辰戦争】
にのう、 東北やエゾを占領しても維持が出来んと心配しとったが、今 見てみぃ
それといっしょでのぅ、 百姓言うのは、 年貢を減らして、上手に操っておりゃー
なんとでもなるもんじゃ。」 と、こんな事を言って、 北京占領作戦を進めていった
のです。
明治28年3月頃、 山縣 有朋公 達の考えを変えさせていく出来事が発生して
行ったのです。
山縣有朋公達に、 北京攻略作戦の断念をさせることになっていったのは、
です。
が発生し、 落ち着いて前に進めなくなっていったのです。
維持して、 特権階級の人達だけで政治を行おうとする、保守派と、身分に
とらわれず、日本のように、四民平等にして、西洋のよい部分を模倣して、近代
国家をいち早く建設すべしという改革派が台頭し、 保守派は清国と手を結び、
改革派は、日本と手を結び、 政治が混乱していったのです。
そして、前年の明治27年に 東学党の乱という、全国規模の農民の反乱が
発生し、朝鮮半島は動乱に巻き込まれていったのです。
考えて、反乱をやめていき、 沈静化していたのですが、 明治28年に入って
保守派が、日本軍と改革派に粛正されると、 「 このままでは、日本人に、我国
が乗っ取られてしまう。」と、危機感を募らせて、 全土で、百姓一揆を起こして
いったのです。
ちょうど、 明治28年の3月頃のお話しですが、 この反乱の後には、清国の
諜報員が煽動をしていたとか、 王宮を追放された、 保守派の人達が、武装
蜂起していったとか、 いろんな事が言われていますが、 山縣有朋公達は、
北京に進む予定が、大きく 狂って行ったのです。
これらの争乱を、第2次東学党の乱と呼んでいます。
朝鮮の高麗王朝の改革派と、日本陸軍は、これらの暴動を武力で鎮圧して
行くのです。
朝鮮半島の民衆の悲劇は、ちょうど、明治27年 1894年頃から始まって
いったようです。
【明日に続く。】