第1758回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1757話 南方への進出計画の事。2017年1月23日月曜日の投稿です。

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  1895年 明治28年3月に、日本陸軍の第1軍は、清国領の奉天の手前で

 清国軍と戦闘行為に及んでいたのですが、 後の南側で、朝鮮の宗教組織

 東学党という組織が中心となって、 朝鮮半島から日本軍を追い出そうと、暴動

 や、農民による反乱を煽動し、 高麗王朝の親日の改革派と日本軍は、これらの

 武力討伐を余儀なくされ、 北京への進撃を断念していったのです。


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   代わりに、当時の内閣総理大臣 伊藤 博文公が、提案していた、清国との

  和平交渉で、 清国から賠償金を取ること、 遼東半島山東半島の日本軍の

  占領地の割譲、 つまり日本の領土にすることを同意するという事を認めさせ、

  当時、あいまいな位置ずけであった、琉球列島と台湾とその周辺の諸島を

  日本領として認めさせる事を条件に、清国と和平を結ぶという外交方針が

  決められていったのです。


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  清国からすると、 現在の沖縄県や、台湾は、 清国に毎年貢ぎ物を献上する

  属国扱いであったのです。

  これらを この機会に、はっきりと線引きして、 日本の領土と言う事を認めさ

  せ、 国際社会に認知しようとしたようです。


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   ただ、当時、これらの事について、しぶしぶ、山縣 有朋公は同意したものの

 「 わしゃーー俊、えーことにならん思うど。」 と、 忠告したのです。



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 どういうことかというと、 当時の約21年前、 1871年 明治4年宮古島の島民

 が、台風で難破して、台湾に流れ着き、現地の土人に54名が 斬首されるという

 事件が発生し、当時、木戸孝允公などが、反対していたのですが、 西郷 隆盛公

 の弟の、 西郷 従道 陸軍大将が、強引に台湾に出兵し、561名が熱病に

 感染して、現地で亡くなり、 撤退するという出来事を、 征台の役と言いますが

 山縣有朋公からすると、そんな場所を占領するより、北京を占領すべきというのが

 持論であったわけです。

 当時、山縣有朋公からすると、「土人の住む、南方の熱病の島を手に入れても、

 銭にもならん。」 と、こんな考えであったようです。


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      【 明治28年当時の海軍軍令部長 樺山 資紀 海軍大将 】




  当時の軍令部長の樺山 資紀 海軍大将は、 内閣の意向で御前会議で

 決定された、台湾を再度征服するとする、作戦計画の立案を軍令部に指示し、

 出来上がった作戦というのが、 まず、ポンフー諸島に、連合艦隊を派遣して

 このポンフー諸島をまず制圧し、 清国と台湾の船舶の航行を遮断し、台湾を

 海上封鎖せしめ、 後に、 陸軍部隊が上陸して、占領するという作戦であった

 のです。



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  ポンフー諸島と言うのは、 澎湖諸島という場所の事で、 中国の大陸と、

  台湾の間の台湾海峡に位置する 島々の事であったのです。


  明治28年 3月、 日本海軍の連合艦隊は、 伊藤 海軍中将を司令長官と

 して、佐世保を出港し、 同方面に進出する事になっていったのです。


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    これらの作戦の目的というのは、 清国の代表者と、和平協議に及ぶ前に

 中国大陸と、 台湾との間に、 日本海軍によって、鉄槌を打ち込み、海峡を

 封鎖することで、 中国の南部から圧力をかけ、 同時に、 山東半島から、

 奉天方面からと、 3方向から清国に圧力をかけることで、 和平交渉を有利に

 導こうとする、 外交の駆け引きでもあったわけです。

 そして、 伊藤博文公は、 外交交渉の布石として、ある計略を考えるのでした。


 【明日に続く。】