第1759回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1758話 比志島混成支隊の事。 2017年1月24日火曜日の投稿です。





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    1895年 明治28年の3月10日 佐世保を出港した連合艦隊は一路、

  東シナ海を西に進み、 台湾海峡に転進し、 ここの中央に位置する諸島の

  ポンフー【澎湖】諸島に上陸作戦を開始したのです。


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上陸作戦と言っても、たいした抵抗を受けずに占領し、作戦の目的の支那大陸

と台湾の海上交通網を遮断し、 このポンフー諸島に陸軍部隊が輸送船から

次々、上陸していったのです。


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  【  台湾混成支隊 司令官 比志島 義輝 陸軍大佐  鹿児島県出身 】





    ポンフー諸島に上陸して、 これらの島々を占拠し、馬公に司令部を置いた

  部隊を、 台湾混成支隊 と呼びまして、 当時の司令官が、旧薩摩藩の比志島

 義輝 陸軍大佐であったのです。

 ところが、 どういうわけか、 馬公に 比志島大佐が陣を張ってしばらくすると、

 数百人単位で、まとまって、食中毒というか、 吐き気、高熱を訴えて、倒れて

 動けなくなっていったのです。

 後から考えると、 これらの兵士を隔離しておけば良かったのですが、そういう

 知識がとぼしい当時、 どんどん これらの症状が他の元気な兵士に、風邪が

 移るように広がって行き、1000人以上の患者となり、 その中から、ひどい症状

 の兵士から死亡していったのです。

 これらの遺体を、すぐ焼却処分すれば良かったのですが、 一緒に当地に

来た戦友ですから、 葬儀か何をしたのか知りませんが、遺体を運んだ人にも

病気が移っていったのだそうです。 


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 これらの報告を聞いた、 伊藤 祐享 連合艦隊司令長官は、軍医長と相談

して、日本には無い、南方特有の風土病で、 伝染病の一種ではないかと判断

し、 「病人を日本に後送してもらいたい。」と要望する、比志島 司令官の要請

を却下し、現地で何とかするように命令を出したのです。

「現地でなんとかしろ。」と言われても、病院はない、薬もない、氷もない、

そういう状況であったようです。

これらの伝染病の患者を船に乗せると、船全体が病原菌で汚染され、佐世保

入港すると、 これらの病原菌が、今度は佐世保に蔓延すると判断したのです。



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    現地では、 伝染病が蔓延していき、 なんと、1250人が病死し、 その他

    数百名が、寝たきりで事実上、放置されるという結果になっていたのです。

    後に、これらの出来事を研究した人によると、 コレラ という伝染病であった

    可能性が非常に高いと言われています。


    明治7年の征台の役と呼ばれる、台湾での現地の部族との戦闘でも、561名

    が原因不明の伝染病で現地で病死していて、 これらの事の二の舞になるの

    ではないかと心配していた、山縣有朋公の周辺は、「 ほれ、みてみぃ。」と

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  周辺に漏らしたそうです。

 当時の原因として、 現地の井戸水が原因とか、 糞尿の、昆虫によって運ばれ

 た病原菌が、 食糧に菌がついて発症したとか、 実は、鹿児島丸という 輸送船

 の中で、下痢を訴える兵士がいて、 その人物から 周囲に伝染していったとか、

 いろんな言い伝えが伝わっています。

 ちょうど、 ポンフー諸島の馬公で、死病が猛威を振るっていた頃、九州の沖合

 に清国の和平使節が近づいてきたのです。 


  【 明日に続く。】