第1760回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
2017年1月25日水曜日の投稿です。
1895年 明治28年の3月19日 台湾と支那大陸の中間の澎湖【ポンフー】
諸島の馬公を占拠した、台湾混成支隊 比志島 義輝 陸軍大佐の部隊に、
伝染病が蔓延していき、 大騒ぎになっていた頃、 九州の福岡県の門司港に
清国の和平使節が到着したのです。
【 欽差大臣 李 鴻章 リ ポンチャン 】
清国の和平使節の 李 鴻章 と言う人は、 命をかけて、戦争中の敵国の
我が、大日本帝国に、武器も持たずに 乗り込んで来たわけです。
このような行為は、 国のことを考え、 我が身を殺して、前途を考える人しか
出来ない事で、 当時の日本人も、彼の姿を見て、外務省の人も、感心した
そうです。
乗り出すために、 広島を発って、 下関に移動したのですが、ある細工を、
陸軍と海軍に依頼したのです。
その細工とは、何であったかと言うと、 日本が、ポンフー諸島を占領した話しを
清国側に情報を流すとともに、 門司港の前の水道に、大陸に向かう 大阪第4
師団の輸送船団や、東京の近衛師団の輸送船団をわざと、留め置いて、日本が
どんどん兵力を大陸に移動している姿を清国側に見せつけるデモストレーション
を行ったのです。 また、周辺の市民にも極力、これらの輸送船を、日の丸
を振って見送るように触れを出したのです。
であった 陸奥 宗光さんが、吐血して倒れ、健康が優れず、 また、早期に、
有利な条件で、和平を結んで、戦争を終わらそうという考えの表れであったの
です。
さんが行った時の 英語の通訳が 伊藤 博文 公でありました。
清国側の目的は、 戦闘行為を即時停戦させ、 日本側がこれ以上攻めて
こないように、話し合いで条約を結んで、 時を稼ぎ、 各地で発生している
反乱に、現在の兵力を向けて、鎮圧することにあったようです。
つまり、 和平と言っても、 清国が 降伏する訳ではなかったのです。
日本側は、 清国が降伏し、 その降伏の条件をどのようにするか、そういう
和平協議と思い違いをしていたようです。
そんな中、 中国の南部の台湾海峡の澎湖【ポンフー】諸島に、日本軍が上陸
して、占領したという話しを聞き、 多数の大陸に向かう輸送船、それを歓呼で
見送る門司の人々を見ていた、李 鴻章は、 日本国民が士気が盛んで、物量の
多さに驚き、 和平交渉に臨むことになっていったのです。
【 明日に続く。】